日本の「尊厳(平穏)死」、実は日本型のパターナリズム誘導「無益」論では?

ずっと前から考え続けてきたことなので、
まだ煮詰まっていないところもあるけれど、だいぶ整理できてきたので、
今の段階で一度ちゃんと書いておきたいと思って。


日本の「尊厳死」とか「平穏死」というのは
みんな疑うこともなしに欧米の安楽死や自殺幇助の議論の流れとして議論しているけど、
実はそっちじゃなくて、むしろ「無益な治療」論の流れなんじゃないか、と
ずっとぼんやりと引っかかっていた。

欧米の議論において、
この2つは相互作用的に影響しあって対象を拡大させ、
「救命可能性」から「QOLの低さ」へと互いの指標を変質させてくるなど、
互いに密接に関係しあっているのは確かなのだけれど、

決定的に違うのは、
「死ぬ権利」の方は決定権が患者にある、という議論であり
「無益な治療」論は、専門職としての医療職に決定権がある、とする議論であること。

で、そこのところでこそ、
日本の「尊厳死」や「平穏死」は前者ではなく後者ではないか
という思いがずっとあった。

まず、日本で「尊厳死」や「平穏死」を説き始めたのも説いているのも、
患者ではなく、医師である、という点。

それらの医師の発言では、
「患者や家族の自己決定」はアリバイ的に持ち出されてはいるものの
実際には「医師が決断する」ことの重要性が力説されていたりもする点。

いわゆる尊厳死法案の内容も、
患者の自己決定の尊重というよりも医師の免責に力点が置かれている点。

それから、日本の医療文化の中では、
いまだに「患者の自己決定権」という概念は定着しておらず、
今なおパターナリズム権威主義が横行している、という点。

そういうことを併せ考えた場合に、
やはり日本の「尊厳死」「平穏死」というのは
「死の自己決定権」とか「死ぬ権利」という
欧米の「患者の権利」運動の流れでは捉えられなくて、

むしろ、患者に向かって無益な治療論を自発的に発動せよ
医師がパターナリズムで説いてきかせる、という
捩れた形の―― 手の込んだ―― 「無益な治療」論なのではないか、と
ずっと引っ掛かりがあった。

そのことを「やっぱり……」と確信したのは、
4月に出てきた日本病院会
「「尊厳死」-人のやすらかな自然の死についての考察」

これについては、以下のエントリーで取り上げているけれど ↓
日本病院会が「認知症者も高齢者も重症ならみんな自然死で」 次の狙いは神経難病と重症心身障害者?(2015/6/4)

例えば、この文書の中の以下の下り。

・ 延命について以下の例のような場合、現在の医療では根治できないと医療チームが判断したときは、患者に苦痛を与えない最善の選択を家族あるいは関係者に説明し、提案する

     ア)高齢で寝たきりで認知症が進み、周囲と意志の疎通がとれないとき
     イ)高齢で自力で経口摂取が不能になったとき
     ウ)胃瘻造設されたが経口摂取への回復もなく意思の疎通がとれないとき
     エ)高齢で誤飲に伴う肺炎で意識もなく回復が難しいとき
     オ)癌末期で生命延長を望める有効な治療法がないと判断されるとき
     カ)脳血管障害で意識の回復が望めないとき

・ 下記の事例はさらに難しい問題で、今回は議論されなかった。
     ア)神経難病
     イ)重症心身障害者

(ゴチックはspitzibara)


これは、簡単に言えば、こうした6つの事例のような患者さんについては
「医療チームが判断」して「尊厳死」を「提案」しましょう、という話。

患者さんや家族の意思で話が始まるのではなく、
医療チームの判断で話が始まるというのが、
何より、私が日本の尊厳死を実は「無益」論であると考える最大の理由。

いわゆる「尊厳死法案」が終末期の人に対象を限定しているのに対して、
この文書では「現在の医療では根治できない」ことをスタンダードとしており、
尊厳死法案」からスタンダードが変容してきている。

この点も、英語圏の「無益な治療」論での、
「救命可能性」から「QOLの低さ」へのスタンダードの変質と重なる。

すなわち、日本の「尊厳死」「平穏死」とは、
パターナリズム権威主義が根深い日本の医療文化の中で
医療職が判断し、患者に向かって「説明」し「提案」し、

例えば、事故翌日に人工呼吸器を外してもらって「尊厳死」した、あのバウアーズさんのように、
尊厳死」を「自己決定」しなさいよ、と誘導していく……という形の、

たいそう手の込んだ、日本型の「無益な治療」論なのでは?

もともと「患者の自己決定権」が確立されてもいないし
十分に保障も尊重もされてもいない日本の医療現場では、
その「提案」が実態としては「一方的な宣告」であったとしても、
患者や家族はそれに抗い難く、

簡単に「本人や家族の意思を尊重しました」という形に
もっていかれてしまうだろう。

そういえば、
最もラディカルだといわれる米国テキサス州の「無益な治療法」ですら
病院サイドから正式に治療の中止を通知してもらう患者サイドの権利や
助言者とともに倫理委員会に出て意見を申し述べる権利が保障されているけど、
日本の医療現場にはそんなものは見当たらない。

そう考えると、
やっぱり日本の「尊厳死」「平穏死」というのは
アリバイとしての表向きだけ「患者と家族の意思の尊重」が謳われながら、実際には
医療サイドの判断を「患者と家族の自己決定」に書き換えていくための装置になりかねないのでは?

つまり、手の込んだ日本型パターナリズム誘導「無益な治療」論


           ――――――

念のために申し添えておきますと、
私は本来の意味での「無益な治療」論による消極的安楽死を否定するものではありません。

つまり、もうどうしたって助けてあげることができない段階に至った患者さんを
いまさら甲斐のない治療で無益に苦しめるということは、すべきではないと思うし、

その判断が微妙で悩ましいなら、
患者さん本人や家族の意思が尊重されるべきだとも思います。

ただ、この問題をこれ以上に議論するには、日本の医療現場は、
まずもって、あまりにも「医療の主体が患者にある」という認識を欠いているし、
インフォームド・コンセントを含め「患者の自己決定権」についての意識が欠落している、
と考えています。

また(これは個人的な体験が偏っているためかもしれませんが)そのために医療職に
患者や家族との間で丁寧に信頼関係を築かなければならないという意識も薄いような印象もあります。

そうした医療の文化が変わらないかぎり、
患者の自己決定権がある程度確立された欧米の議論の概念や文言だけが
都合よく輸入されて、イメージ操作に使われ、

また空気を読むことに機敏なメディアが情緒的な議論で煙幕を張り、
結局は国の思惑やそれに乗っかる医療サイドの都合によって
私たち患者や家族は体よく一定の方向へと誘導・操作されてしまうだけなんじゃないか、と。