日本病院会の「尊厳死」文書に、OTさん「おいおい、みんな俺の患者さんですけど」

日本病院会から4月に出されたターゲットの広い「尊厳死」推進文書については
以下の2つのエントリーで触れてきました。


その中でも特に問題にしてきたのは、以下の箇所。

・ 延命について以下の例のような場合、現在の医療では根治できないと医療チームが判断したときは、患者に苦痛を与えない最善の選択を家族あるいは関係者に説明し、提案する。

     ア)高齢で寝たきりで認知症が進み、周囲と意志の疎通がとれないとき
     イ)高齢で自力で経口摂取が不能になったとき
     ウ)胃瘻造設されたが経口摂取への回復もなく意思の疎通がとれないとき
     エ)高齢で誤飲に伴う肺炎で意識もなく回復が難しいとき
     オ)癌末期で生命延長を望める有効な治療法がないと判断されるとき
     カ)脳血管障害で意識の回復が望めないとき

・ 下記の事例はさらに難しい問題で、今回は議論されなかった。
     ア)神経難病
     イ)重症心身障害者



敬愛するOTの川口淳一さんから
学会で「終末期における作業療法」という講演をすることになり、
その準備をしていたら、この文書に行き当たり、
spitzibaraさんのブログにヒットしたから、と
メールをいただきました。


川口OTも、このくだりの6つのケースを見た時に、
「おいおい、これ、みんな俺の患者さんですけど」と驚いたそうです。

で、メールに書いてくださったことを
ご本人の了解を得て、以下に。

あそこに書かれている尊厳死を医療チームが提案する対象の人たちって、
ほとんどは作業療法の対象者です。

認知症が進み意思疎通が取れないひととは、
医療者側が患者さんの小さなサインを読み取れていないことがほとんどです。

経口摂取が困難になったと言い切る前に
一日でも長く口から食べ続けるための方法を家族とやりきる必要があります。

癌末期の患者さんに対しては「がん患者リハビリテーションマニュアル」に
その存在を承認されるべく、スピリチュアルなケアが必要だと書かれていますし、
現に多くの病院でその実践と報告があります。

脳血管で意識回復が望めないひとと言いながら
脳死判定対象にはならない以上、どこかに「意思」が存在するのです。
目を閉じている人に「目をつぶって」というとぎゅっとつぶることもあります。


そして、砂原茂一著『リハビリテーション』(1980)から、
以下が引用されていました。

リハビリテーションという場合、わたしたちは華やかな成功例だけを数え上げることは許されないように思われる。リハビリテーションスペクトラムを考えるとき、その一方の極に「納税者」を置けば、他方の極に植物状態をつづける人を置かないわけにはいかない。

そして「納税者」「社会復帰」などというスローガンの強調は、そのスペクトラムの一端だけを取り上げて他の端を切りすてることにつながりかねない。障害者の人権の主張、差別の克服を目指したはずのリハビリテーションが一部の障害者の人権を否定、新しい差別の創出に肩をかすことにつながりかねない。

技術論としてとらえるかぎり、できることとできないことがあるのは当然であるけれども、理念として捉えるなら、このような恣意的な切り捨ては到底許されることではないであろう。



まったく、その通りだと思う。

ただ、リハビリテーションというのは
本来は障害者の人権の主張、差別の克服を主張する立場のはずなのに、

でも、実際にはそうなっていなかったこと、
それどころかむしろ逆に障害者の人権を踏みにじるような面もあったということは
障害者運動が指摘してきたんじゃなかったっけか。

というか、
医療全体がもともと、そういう「ねじれ」の中にあるんだから、
その一端であるリハビリテーションも「ねじれ」を避けがたいと
いうことなんだろうけれど。

(でもOT・作業療法という領域は
医療の中では最も「生活」に近い、という点で、
魅力というかいろんなポテンシャルを私は感じてもいるんだけれど)

だから、むしろ、医療が
障害者を治療に値しない、生きるに値しない存在とみなして
切り捨てていくのは、その「ねじれ」のある種の必然とも見えて、

11月7日に放送された
ETV特集▽それはホロコーストのリハーサルだった~障害者虐殺70年目の真実
生々しくよみがえってくる。

見逃された方、14日深夜0時から再放送があります。



また、市野川容孝先生がHPにアップしてくださった
ナチスプロパガンダ映画『私は訴える』と
安楽死計画以前にあった第一次大戦中の大量餓死についての補足情報がこちら ↓
http://d.hatena.ne.jp/Ichinokawa/20151110


こういう情報を経て、
冒頭の日本病院会の文書を振り返ると、

つくづく今ここにある空気感は
ナチスの時代と何も違わない、と思い知らされる。