安藤泰至「『尊厳死』議論の手前で問われるべきこと」シノドス

安藤泰至先生が書かれるものを読むたび、
印象は、だいたい、いつも同じで

「論理的なのに、しなやか」それから「懇切丁寧」。
時に「まろやか」とすら感じることがある。

今回のシノドスの論考も、まさにそういう感触。




尊厳死」と「安楽死」という文言を巡る混乱を
懇切丁寧に解きほぐし、

それらが「『イメージ』を伝える語」でしかない曖昧さによって
「避けるべき『悪い死』」を前提にして、「それを避けるために
要請される特定の行為がありうべき『良い死』のイメージ」を流布させていく、という
「言葉の政治学(ポリティックス)」のカラクリを明らかにしていく。

「病死」「事故死」「がん死」「水死」「ショック死」「戦死」「腹上死」など
死に至った原因や状況を一定程度客観的に説明している言葉群と
安楽死」「尊厳死」「平穏死」「自然死」などの
内容が曖昧なまま一定の価値判断を含んでいる言葉群の比較は
たいそう分かりやすく腑に落ちるのだけれど、

さらに、そこに「孤独死」が追加されると、

孤独死」に付与されている「避けるべき『悪い死』のイメージ」から、

安楽死」「尊厳死」「平穏死」などに
「良い死」のイメージが「はじめから植え込まれている」ことが、くっきりと照らし返されてくる。

そして、

……「安楽死」や「尊厳死」の是非についての議論が行われる際に、何が隠されてしまいがちなのか、本来問われるべきどのような問いが問われないままになってしまいがちなのか、という極めて重大な問題……


これこそが、「言葉のポリティックス」の作用でもある。

また「孤独死」の問題を考える際の私たちの態度を
安楽死」や「尊厳死」を考える際の態度と対比してみれば、

……「孤独死」の場合には、もっぱら人を「孤独死」させないような社会を構築することが目指されるのに対して、そこでイメージされた「悪い死」に対する対処として、そうした「悪い死」の大きな要因となる医療や医療文化の改善ではなく、「安楽死」や「尊厳死」、「平穏死」といった個人による「死の自己決定」や「(延命)治療の拒否」が説かれるというある種の本末転倒……


これぞ、まさに「尊厳死」「平穏死」言説のポリティクスであり、

……このように「どう生きるか」をめぐって患者の自己決定を支える医療文化が未成熟のままで、「どう死ぬか」をめぐる自己決定権だけがうんぬんされることはまさに本末転倒といわざるを得ない。


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ここ数年、欧米の「死ぬ権利」運動が
これまでのeuthanasia とか physician-assisted suicide(PAS)という文言を使わなくなり、
aid in dying とか assisted dying という文言にスイッチし始めていることについては
例えば以下など、多くのエントリーで取り上げてきていますが、


それによって、なし崩し的に広げられていくのは
積極的安楽死も医師幇助自殺も消極的安楽死も、その方法を問わず、
いずれも尊厳のない苦しい死を避けるための「医療による援助」すなわち
「緩和ケアの一端」なのだという主張(こういうのを「ミーム」というのかな)。

それによって、
医師が死なせる目的で毒物を注射する直接的な行為と
すでに今でも一般的に治療として受け入れられている苦痛緩和のための鎮静とが
地続きの「治療行為」にされていく。

その概念の拡大が、
国によっては既に法案・法文レベルでも起こり始めているのと同時に、

ベルギーの実態として報告されているように ↓
ベルギーの「緩和または終末期の鎮静」8割が患者の明示的要望なし(2014/2/15)

「死ぬことへの医療的援助」として「治療行為の一環」と見なされることによって、
「患者の自己決定権」を論拠とする「死ぬ権利」議論の文脈からも外れて、
医師のパターナリズムによって、患者の明示的な要望も家族の同意もなく
安楽死させられる人も出てくる。

こうした言葉のポリティックスとは、
実態としてのすべり坂に向けて、概念を拡大・変容させていく、
隠れ蓑の整備以外のなにものでもない。



ちなみに、

去年、安藤先生との共訳で出したのが、こちら ↓
『生命倫理学と障害学の対話 - 障害者を排除しない生命倫理へ』
(A・ウーレット著 安藤泰至 児玉真美 翻訳 生活書院 2014)


安藤先生が今回のシノドスの論考で参考文献に挙げてくださっている拙著が、こちら ↓
『死の自己決定権のゆくえ ― 尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植』(大月書店 2013)


安藤先生と同じテーマで
Spitzibaraがシノドスに書いたものは、こちら ↓