アトゥール・ガワンデ『死すべき定め - 死にゆく人に何ができるか』 4

前のエントリーから続きます)

そうして、私にはずっと気がかりだった
安楽死や医師幇助自殺に対する著者のスタンスは
最終第8章「勇気」で明らかになる。

 人の死をコントロールできると示唆する見方に対して私は懐疑的である。今までは本当に死をコントロールした者はいない。人の生の行方を究極的に決定するのは物理学と生物学、事故(spitzibara注:これは誤訳だと思う。「偶然」が正しい訳では?)である。しかし、私たちにまったく希望がないというわけではないことも忘れてはならない。勇気とは双方の(spitzibara注:「双方の」に傍点)の現実に向き合う強さである。時が経つにつれて人生の幅は狭められていくが、それでも自ら行動し、自分のストーリーを紡ぎ出すスペースは残されている。このことを理解できれば、いくつかはっきりした結論を導き出せる――病者や老人の治療において私たちが犯すもっとも残酷な過ちとは、単なる安全や寿命以上に大切なことが人にはあることを無視してしまうことである――人が自分のストーリーをつむぐ機会は意味ある人生を続けるために不可欠である――誰であっても人生の最終章を書き換えられるチャンスに恵まれるように、今の施設や文化、会話を再構築できる可能性が私たちにはある。
(p. 243-244 ゴチックはspitzibara)


著者は患者が望む時には死を手助けしてもらう権利は、
治療を拒む権利という形では認められているとして、

消極的安楽死と積極的安楽死の区別を前提とした問題の捉え方をしている。

そして、
これから苦しみが増すだけだと分かっている末期患者への同情を示しつつ、

 同時に一方で、人の死を早めるのを積極的に助けることが医療行為の一部になった時に何が起こるかを考えると恐ろしい。この権利の濫用についてはさほど心配しないが、これに依存してしまうことは心配している。自殺幇助支持者たちは、自殺幇助において間違いと濫用が起こらないように厳しい制限を課す制度を作り上げている。……(中略)……しかし、2012年で35人のうち1人のオランダ人が自分が死ぬ前に自殺幇助を求めているという統計は、自殺幇助制度の成功を示す数字ではない。むしろ、失敗を示す数字である。医療者の究極の目的とは、あれこれ言っても結局のところ、よい死を迎えさせることではなく、今際の際までよい生を送らせることなのだ。できないはずはないのに、オランダは他の国よりも緩和医療のプログラムの発展が遅い。その理由の一つはおそらく、自殺幇助の制度があるゆえに、衰弱したり深刻な病気にかかったりしたとき、他の方法で苦痛を軽減したり生活を改善させたりするのは非現実的だとする信念が強められているのだろう。

……(注)…… この権利ゆえに医療者が病者の生活の改善を怠るようになったとしたら、それは社会全体にダメージを与えることになってしまう。生命幇助は自殺幇助よりもはるかに難しいことだが、それが持つ可能性ははるかに大きい
(p.245 ゴチックはspitzibara)


そこで著者が語るのは、娘のピアノの先生のガン末期のエピソード。

どんどん悪化して希望がなくなり、
なるほどこういう状態で「尊厳死」の提案を受けたら、
それだけが唯一の自律のチャンスだと考えるだろうな、と思える状態になるが、

そこで著者に「よい日というのがしばらくないようだけど、
そういう日がたった一日でもほしいですよね」と勧められてホスピスを選択した女性は、
最後の日々を生きることへの希望を取り戻し、自宅でピアノのレッスンを再開。

教え子たちが2回のファイナル・コンサートを開いた。

 現代のハイテク社会は、社会学者のいう「死にゆく者の役割」が臨終で果たす重要性を忘れている。死にゆく人は記憶の共有と智恵や形見の伝授、関係の堅固化、伝説の創造、神と共にある平安、残される人たちの安全を願う。自分なりのやり方で自分のストーリーの終わりを飾りたい。調査報告によれば、この役割は死にゆく人にとっても残された人にとっても人生を通じてもっとも重要なことである。そして、もし本当にそうならば、私たちの鈍感さや怠慢さゆえに、この役割を否定してしまうことは恥辱を永遠に残すことにもつながる。人の人生の最期の時に底知れない深い傷を残しながら、終われば残した傷について無関心でいることを、私たち医療者は何度も繰り返している。
(p. 250)


医療に深く根付いたものの見方や、医療者の意識のあり方を問い直すことなく、
平穏な終末期のためには「家族で話し合い、事前指示書を書いておけ」と
専門性の高みから、パターナリスティックな口調で患者に説き示す、
医療職の方々にこそ、ぜひとも読んでいただきたい1冊。