マグナス、ウィルフォンド、カプランが「脳死は死、スタンダード死守せよ」とNEJMに

McMath事件については、以下のエントリーで追いかけてきました。



そのMcMath事件と平行して論争となっていたのが、
妊娠していた脳死の女性の生命維持を巡るMarlise Munoz事件。

Munoz事件に関する日本語報道はこちら ↓
http://www.cnn.co.jp/usa/35043069.html
(なお、ここで問題になっている州法は例のTADA、「無益な治療」法)


これら2つの事件を巡る論争について、The New England Journal of Medicineに
David C. Magnus, Benjamin S. Wilfond, Art Caplanの3人がコメンタリーを書き、

医療職と法とは人の生と死の境目を脳死として
きっちりと線引きし、それを死守すべきだと主張。

The determination of death is a highly significant social boundary. It determines who is recognized as a person with constitutional rights, who deserves legal entitlements and benefits, and when last wills and testaments become effective. Sound public policy requires bright lines backed up by agreed-on criteria, protocols, and tests when the issue is the determination of death. The law and ethics have long recognized that deferring to medical expertise regarding the diagnosis of brain death is the most reasonable way to manage the process of dying. Nothing in these two cases ought to change that stance.

死の定義は非常に重要な社会的な境界線である。それによって憲法上の権利を有する人とみなされるのはどういう人か、法的な資格と利益に値する人はどういう人かが決まり、また最後の遺言状や証言がいつから有効とされるかが決まる。健全な公共施策には、死の定義が問題となる場合についての、合意のできた基準とプロトコルと検査に裏付けられた明確な境界線が必要となる。法と倫理学はもう長年、死のプロセスを管理するには医学専門職の死の診断に関する専門知識にゆだねるのが最も理にかなった方法だと認めてきた。これら2つの事件で起こったことによってそのスタンスが変わるようなことがあってはならない。
(ゴチックはspitzibara2)


“Proponents of allowing family members to determine death threaten to undermine decades of law, medicine, and ethics… Families often need time to accept death, and that can be particularly complicated in cases of brain death. For the family's benefit, a short-term accommodation can be ethically justified. But these psychological realities do not undermine the important social construction of death when the brain has ceased all meaningful activity.

いつが死かを家族が決めることを認めようと提唱する人がいるが、それでは何10年間もの法、医学、倫理学の歴史……が否定されてしまいかねない。家族が死を受け入れるのに時間を必要とすることは多いし、それは脳死の場合には特に複雑な問題ともなる。家族のためになるなら、短期の間、望みを尊重してあげることも倫理的には認められるだろう。しかしこうした心理的な現実があるからといって、脳が意味のある活動を停止してしまっている場合に社会が死をどのように規定するかという重要な問題が、それによって影響されるわけではない。


BioEdgeのCookによる指摘は2点で、

まず、
著者ら3人は良い公共施策という視点から論じているだけで
脳死が死であることを証明していない。

さらに、以下のように書いて
遷延性植物状態も「死」と定義することが可能だとほのめかしている。

Although one could conceivably draw the line somewhere else, such as loss of cognitive functioning, the reliability and social consensus that has emerged around brain death as death is reflected in the broad legal agreement under which brain death is recognized in every state.

例えば認知機能の喪失など、その他のところで線を引くことも理論的には可能だが、死としての脳死の周辺でできてきた信頼性と社会的コンセンサスは、あらゆる州で脳死を死とする一般的な法的合意に反映されている。



McMath事件で目にした情報からの印象とともにこの記事を読むと、

何が死であるかは社会が定義することであり、
医療専門職が「脳死は死」という以上は脳死は死だと
我々の社会がいったん決めた以上は、

温情として家族に多少の時間的猶予は認めるとしても、
それはただそれだけのことに過ぎず、
その定義を揺るがすようなことは認めてはならない、
脳死は死」スタンダードは死守せよ、という主張に聞こえる。

でも、そういう論理で行くなら、今回の事件を契機に
社会がこれまでの脳死概念の見直しを検討してみることだって
社会の選択としてありなんでは? と思ったりも。

そもそも
医療の中に社会があるわけじゃなくて、
社会の中に医療があるんだし、

人は「人体」として生きているわけではないのに、

法と倫理学が勝手に「人の死」を「人体の死」と同一視して
医療専門職の知見にゆだねたっていう、著者らの理解で本当にいいんだろうか。

それは本当に米国社会の「合意された」「境界線」なんだろうか。

そういう問いをこそ、
この2つの事件は米国社会に対して突きつけたんじゃないのか。


それにしても「脳死」って、もともと
臓器移植で「デッド・ドナー・ルール」を回避するための方便だったはずなのに、

こういうふうに、そのそもそもの始まりの文脈を忘れ去ったかのように、
「社会で定義した死だから、それだけが科学的な死」を言い募り、
異をはさむことを一切認めない硬直姿勢は、

もしかしたら、生命倫理学者の間で
別の文脈で新たに「脳死は死」の確認が必要とされてきている……ということなんだろうか。

その「別の文脈」とは、
やっぱり「無益な治療」論だろうし、

それならこのコメンタリーの一番大きな意図は、
脳死は死」の再確認というよりも、

「無益な治療」論によって「死」の線引きがさらに動く可能性を見据えたうえでの、
「死はあくまでも社会が医療専門職の基準にゆだねつつ合意して決めるもの」であることの
再確認にある……とか?


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コメンタリー全文がこちらで読めます ↓
http://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMp1400930?query=featured_home&
読んでみようとして、最初のあたりで目を剥いた。

McMath事件の事実関係の説明における
ジャハイさんが転院したくだりで、以下のように書かれている。

the body was given to the family 3 weeks after the initial determination.

ジャハイさんの遺体は当初の死の診断から3週間後に家族に引き渡された。


これでどっとメゲたので、
コメンタリーについては、また改めて読んでから別エントリーに。