P・シンガー、人種差別と種差別について

5月27日のNYTのオピニオン・ページに、
ピーター・シンガーのインタビュー記事がある。

インタビュアーは George Yancyという黒人のDuquesne大学哲学教授。

Yancyはまず最初にSingerに、種差別の定義を求め、
種差別は人種差別と異なっていると考えているのか似ていると考えているのか、と
問うことから始め、

人種差別、性差別、障害者差別など人間の権利と平等が達成されていないことの背景に、
ヨーロッパの白人が原住民を劣等としてパターナリズムで見下して支配することによって
社会制度的に抑圧された原住民にアル中などの問題行動が高率で発現し、
しかしその社会制度的な抑圧や貧困、周縁化といった要素はカウントされることなく
そうした構造的な差別がさらに差別感情を助長していく悪循環を指摘し、

またそれらは黒人での
銀行の貸し出し、教育や医療や警察の逮捕率における不平等とも
重なっていることにも触れて、

人間において制度的な差別が温存され平等と権利が保障されていない中で
種差別を問うことについて迫ろうとしているように見える。

Yancyの主張の趣旨は、以下の最後の問いに集約されると思う。

Given that we have not even figured out how to treat those of our own species with dignity and respect, as someone who continues to fight against speciesism, do you have thoughts on how we might effectively dismantle racism?

我々はまだ自分と同じ種である人間を尊厳と敬意を持って遇する方法が分かっていないとしたら、種差別に反対し続けている人として、我々はどうすればうまく人種差別を解消することができるかについて、どうお考えですか?


これに対して、シンガーは
人間の間の差別については「いけないこと」だという共通認識ができて
差別を禁じる法律だって整備されているし、人間の差別については
世の中は前世紀に比べれば暴力も減っていい時代になってきているから、
まぁ、大丈夫なんじゃないか……的な楽観論。

一方、動物の権利侵害については、まだ差別的な扱いが主流で、
人間の差別に置き換えると、まだまだ奴隷売買の時代だから、なすべきことが沢山ある、と、

終始、まるで自分の関心事はあくまでも動物の権利と種差別であって、
人間の差別と権利については、あんまし関心ない他人事、みたいな。

オーストラリアのアボリジナルの話題では
どうもシンガーは社会制度的な抑圧をカウントすることなしに
アボリジナルの人々自身のうちにアル中になりやすい傾向があると言いたげだし、
(だからYancyが、制度的な差別と差別感情の循環を指摘していくのだけれど)

そのYancyの社会制度的差別の指摘には、
「それには社会のセクターごとにディビジョンとサブ・ディビジョンがあって、
それぞれどこまでが人種差別なのかということについては
詳細なエビデンスをそれぞれのレベルできちんと分析しないと
制度のどこがいまだに人種差別的なのか、どこが制度的でどこが感情的衝動なのかは
解明できない」と。

論点を少しずつズラした上から目線の詭弁で
さらっとYancyを「いなして」いく様子は、
シンガーはここでも、試合も始まらないうちから、
チャレンジャーの挑戦を受けるチャンピオンの椅子に勝手に座っている感じ。

制度的な差別と差別感情の循環の話もいつの間にか、
低賃金でプレッシャーのかかる仕事をさせられて地位も低い工場や農場の労働者が
人種差別にはけ口を求める心理的必要によって、農場や食肉処理場で
ブタを鉄パイプで殴るとか鶏を生きたフットボールにするとかの
手ひどい動物虐待が起こっているのだ、というところに引っ張っていくし、

それを受けてYancy
そもそも自然を人間がコントロールする対象と見なす西洋の自然に対する捉え方の
影響を示唆するのだけれど、それについては
「そうだとしても、今では東洋世界の方がそれに染まっている」と
なんか、もう、はぐらかしとしか思えない。

それにしても、相変わらず、うへぇぇ……と絶句してしまうのは
最初に、種差別の定義を求められたシンガーの回答の中の以下の部分。

It’s not speciesism to say that normal humans have an interest in continuing to live that is different from the interests that nonhuman animals have. One might, for instance, argue that a being with the ability to think of itself as existing over time, and therefore to plan its life, and to work for future achievements, has a greater interest in continuing to live than a being who lacks such capacities.

正常な人間(ヒューマン)には生き続けることにノン・ヒューマン動物とは異なった利益があると言うことは種差別ではない。例えば、自分をこの先も存在し続ける能力をもった存在と考え、したがって、その生を計画する能力も、将来達成すべきことに向けて努力する能力も持った存在であるなら、生き続けることには、それらのキャパシティを欠いた存在よりも大きな利益がある、と論じることはできるだろう。

On that basis, one might argue that to kill a normal human being who wants to go on living is more seriously wrong than killing a nonhuman animal. Whether this claim is or is not sound, it is not speciesist. But given that some human beings – most obviously, those with profound intellectual impairment – lack this capacity, or have it to a lower degree than some nonhuman animals, it would be speciesist to claim that it is always more seriously wrong to kill a member of the species Homo sapiens than it is to kill a nonhuman animal.

同様の根拠によって、生き続けたいと望んでいる正常な人間を殺すことはノンヒューマン動物を殺すことよりも、重大な不正であると論じることもできるだろう。この主張が正当(sound)であるかどうかは別にして、そう主張することは種差別的ではない。しかし、人間の中にはこのキャパシティを欠いていたり、そのキャパシティがノンヒューマン動物の一部よりも劣っているもの――最も分かりやすいのは、重度の知的障害のある人たち――があり、ホモ・サピエンス(原文はイタリック)という種のメンバーを殺すことは常に(原文はイタリック)ノンヒューマン動物を殺すことよりも重大な不正であると主張するなら、それは種差別である。


これを冒頭で言ってのけておきながら、
人間の間の人種差別も性差別も障害者差別も、
してはいけないことになっているし禁じる法律もあるし、
前世紀に比べれば暴力も減っていい世の中になってきているから
まぁ、どっちにしても解消には時間がかかるにしても、
それより動物の権利……って、

よく言うよ。まったく。

自分が勝手に基準とみなしている“キャパシティ”によって
「劣っている」と線を引き、序列化してかかることの差別性こそを、Yancy
アボリジニーに対する欧米人の態度を例に指摘したんでしょーが。

シンガーは最後のあたりで
一つの偏見と抑圧を拒否しながら別の偏見と抑圧を許容し実行することの不当を
説いているんだけど、

じゃぁ、一方では種による差別を拒否しながら、
頭の良さという勝手に(しかも傲慢に)設定したスタンダードによる
偏見と抑圧を許容し実行し、さらに、それだけでは足らず、
権威をまとった屁理屈で正当化し、お墨付きを与えて
拡大し推進することってな、どうなの?

こういうメッセージ、ちょっと謙虚に聞いてみたら? ↓
全米障害者評議会がP・シンガーに「先生、勉強不足ですよ」(2015/5/11)