CA州の障害者権利擁護機関DRCから、PAS合法化法案提出議員への書簡

合法化法案SB128が州上院議会に提出され、別途訴訟も起こるなど
PAS合法化に向けC&Cが猛攻勢をかけているCA州で、

全米の障害者の権利擁護Protection and Advocacy ネットワークの一環である
Disability Rights Californiaが、5月22日付で
法案の提出者である2人の上院議員宛に
反対を表明する書簡を公開。



SB128への批判や問題の指摘の論点は
これまでPAS合法化に対して出てきているものと変わらないのだけれど、

私には、以下の前文部分がとても興味深かった。

From our advocacy work, we know that in medical settings the lives of people with disabilities are not always valued as highly as those of people without disabilities, which has led to the failure to offer or the denial of medical treatment, supports and services. In the last year, we have had clients with developmental disabilities who were denied cancer treatment explicitly because of their developmental disability.

我々がアドボカシーの仕事をする中で身を持って分かってきたことは、医療現場では障害のある人々の生命は必ずしも障害のない人の生命と同じように尊重されていないということだ。そのために治療や支援やサービスが提案されなかったり、拒否されたりするという事態が起こってきた。

昨年も、発達障害のあるクライアントが、明らかにその発達障害を理由に、ガンの治療を拒否されたケースが複数あった。
(spitzibara注:英語のdevelopmental disabilitiesは、日本の狭義の「発達障害」ではなく、広義に発達における障害全般を指します)

In addition, in society at large, people with disabilities and seniors are subject to fears and stereotypes that devalue their lives. Some people considering assisted suicide are experiencing disability, caused by their underlying diagnosis, for the first time.

加えて、社会一般に、障害のある人や高齢者に対して、その生命を価値を低く見積もるような不安とステレオタイプがつきまとっている。自殺幇助を考える人たちの中には、病気のために生まれて初めて障害を経験するという人が含まれている。


昨年、安藤泰至先生との共訳で刊行した
A・ウーレットの『生命倫理学と障害学の対話 障害者を排除しない生命倫理へ』の中で、

ウーレットが
生命倫理学は、個人の自律的な意思決定を尊重しようとするのに対して、
障害学や障害者運動は、コミュニティのメンバーを守ることを重視する、と
分析していることについて、

特に後者の捉え方に、漠然と「納得できない」感じを引きずってきた。

まだ、すっきり整理できたわけではないのだけれど、
DWCの文書の上記部分を読んで、ちょっと見えてきたものがある。

障害学や障害者運動は、ウーレットが言うように
コミュニティのメンバーを守ろうとしている、というより、
社会の障害者に対する差別構造を問題にしている、という捉え方をするのが
より正しいんじゃないだろうか。

そうした医療や社会の差別構造と闘うことによって
それが結果的には「コミュニティのメンバーを守る」ことにつながるのだとしても、

差別的な扱いから「コミュニティのメンバーを守る」ことが彼らの関心事だという捉え方をすると、
障害学や障害者運動の関心の方向が捉え損なわれてしまう気がする。

PASへの反対においても、
多くの人が「死ぬ権利」や「死の自己決定権」などという枠組みで捉えて、
個々人のコントロールと選択の問題と捉えているのに対して、

障害者運動の捉え方は、
これまでも一貫して障害者の生を価値の低いものと見なして(devalue)
現実に障害者がどのように生きているかから学ぼうとしたことのない、
医療や社会の差別的な構造が、PASの問題でも繰り返されていることを
問題にしているんじゃないだろうか。

だから、(私の捉え方も非常に近いのだけれど)
上の引用箇所に見られるように、彼らにとっては
「死ぬ権利」によるPAS正当化論と「無益な治療」論による障害者への治療拒否とは
併せ検討されるべき同根の「差別」の問題なのだと思う。

この点で、例えば日本の尊厳死法制化議論でも、
単に自分や家族がどのような死に方をしたいか、と個々の死に方の問題と捉える人と、
法制化によって社会がどのような影響を受けるか、とか、
その背景にあるもっと「大きな絵」に潜む差別や支配の社会構造の中に
この問題を位置づけて捉える人とでは、見ているものがまるで違って、
議論が噛み合わないのと似ていると思う。

前者の人たちが個々人の自律的な権利を守ることを関心事とし、
後者の人たちが「日本の弱者を守る」ことを直接的な関心事としているのではなく、
むしろ後者の人たちは社会のあり方を問題とし、
その一つの表れを尊厳死法制化の問題に見ているように、

「障害者運動はそうした差別的な構造から
コミュニティのメンバーを守る」ことを目指しているのではなく、
目指しているのはあくまでも、社会の差別的な構図を指摘し、それと闘い、
それを変革することの方じゃないだろうか。

まだうまく言えないのだけど、

私自身が海の幼児期から、
障害について無知で無自覚で、それゆえ差別的でありながら、
そのことに全く無自覚な「世間」とか「専門職」と闘ってきた、という気持ちはある。

それは、海や海のような「重い障害を持った人たちを守るため」だったろうか、
と考えた時に、

そういうことよりも、
世間や専門家の無知、無理解、無自覚が理不尽で納得できないから、
それに対して異議申し立てをしないでいられなかった、
ということに尽きるような気がする。

……ぐるぐるを、続行してみる……。