Alfie Evans事件から「無益な治療」論を考えるテキサス州カトリック系のサイト

Alfie Evans事件について、
米国のカトリック系のサイトが、米テキサス州の無益な治療法を軸に、
英米の無益な治療論の比較を試みている。


世界中から注目されたこの事件は日本でも「尊厳死」の文脈で捉えられ報道されていたけど、
「自己決定権による死ぬ権利」とは対極の文脈にある、治療の強制終了の話。
ここを間違ってはならない。

「死ぬ・死なせる」という命の線引きの問題としては
この2つは一枚のコインの裏表だけれど、
医療をめぐる意思決定、誰の決定権かという観点からは
この2つはまるで逆の立場。

まず、記事から事実関係をピックアップしておくと、

テキサス州のほかに、同じような「無益な治療」法があって、
一定の手続きを踏んだ後に家族の意思に反して
「医学的に不適切な」治療を中止することが認められているのは、
ヴァージニア州カリフォルニア州

オクラホマ州アイダホ州カンザス州では、
患者と家族が求める治療は提供するよう義務付ける法律が通っている。

Popeによれば、

それらは「反差別法」と呼ばれる。医師に思うようにやってよいと明示的に許可を与えるのではなく、医師に与えるのは明確な禁止であり、要はあなたが決めることではない、家族が決めることだ、ということ。

③ それから、最近のテキサス州の「無益な治療」事件、Chris Dunn事件。
46歳男性。がんで死去。母親が提訴し、無益な治療法の違憲性が争われた。
州および合衆国の憲法で保障されたデュー・プロセスによる保護を侵害している、として。

興味深いことに、このときテキサスのカトリック教会は同法支持の立場で
法廷の友意見書を提出している。

患者の自律と医療職の良心の権利のバランスを取るもので、
家族の意見反映プロセスや転院への猶予期間が設けられているなどが理由。
実際、Dunnの事例では病院は60を超える病院に転院を打診している。

また、同法で実際に生命維持が引き上げられるのは
年間130万人の入院で10件に満たない、とも。


Thaddeus Popeコメントが興味深い。

ほとんどの州においても、家族と合意できなければ
医療サイドが一方的に治療中止を決めているが、
たいていの家族は医療職の進めに従うし、
係争事件の解決にはチャプレンや倫理委員会が関与し、
そもそも訴訟になっても患者勝訴の見込みが薄いことから
裁判にまでなるケースはごくわずか。

しかし、の後でPopeが言っていることは無益論の問題のひとつをくっきり描いている。

“It is a gray area, and it gets complicated,” Pope said. “Normally, you don’t do stuff to patients without their consent, and if the patient can’t or won’t consent, then you can’t do it. …So in a way, all this violates a long-standing rule about consent. But what U.S. doctors would say is the same thing the U.K. doctors said: that you’re making such a bad decision, that we don’ t have to listen to you.”

批判的な意見は、
これまでも法改正に向けて運動してきた立場から。
Texas Right to Lifeは、
倫理委員会がQOLをめぐる価値判断をしていることを疑問視。
実際に、当事者のアドボケイトとして参加した会議でそうした場面を見た、
委員は「治療の無益性じゃなくて患者の無益性を議論する」
その命に価値があるか、医療コストに見合う生産性があるか、が問われる、と。

もう2つ、指摘されている問題は、
倫理委員会の決定を家族が覆すことができない点。
転院先を探す窓口が治療を中止したい医師なのであれば情報操作は可能、という点。

テキサス州の検察長官(AG)からも法廷の友意見書。
不十分な手続きで、憲法の保障された生命権と自分の治療を決める権利を否定する、と。

Wesley Smithは、
意図はよいが、結局は権威主義であり、
保護が不十分なところに、パターナリズムに個人的な価値観が混じる可能性あり。

カトリック教会は終末期の患者の生命維持については
あくまでも負担と利益の比較考量の立場を取る。

ただし、Bouchard神父が興味深い発言をしていて、

“Health care decision-making should always stay as close to the patient as possible, “ Father Bouchard said. “When it gets to the courts, it’s always a tragedy and so far removed from the bedside.”

The National Catholic Bioethics CenterのTadeusz Pacholczyk神父も、
QOL指標は主観であり人の命への判断となることを懸念。

確かに親が理不尽な治療を要求することはある。現実に起こっている。
問題は、それが起きた時に、どのように対応すべきか、である、と彼は言う。

この後のくだりが、とても良い。

Should the response be that we start passing laws that allow hospitals to basically shut down the dialogue with the family, then unilaterally, on their own, take matters into their own hands and determine the outcome? Is that the best way to do this? Probably not.

Figuring out the best way to beak difficult medical news to patients and families, to explain the recommended course of treatment and to maintain dialogue with them, remains the best way for medical providers to handle and resolve difficult cases, even in situations deemed to be “futile” care.

That’s the most important question here, ethically as well, so that health care doesn’t become something that is carried out by ethics committees, hospital administrators and government officials.