脳死と診断された少女の生命維持をめぐるMcMath訴訟
少女はJahi McMathさん。13歳。
その2日後に病院は人工呼吸器を取り外そうとしたが
家族が心臓は動いているとして、それに抵抗し提訴。
家族が心臓は動いているとして、それに抵抗し提訴。
両親は熱心なクリスチャンで、心臓が打っている限り娘は生きていると主張し、
他の受け入れ先に移せるよう気管切開とチューブ栄養を病院に求めた。
他の受け入れ先に移せるよう気管切開とチューブ栄養を病院に求めた。
しかし病院側は病院の敷地内ではやらせない、と。
3日、Alameda郡最高裁の調停で家族と病院側が合意。
このたびの合意により
Jahiさんの生命維持はとりあえず来週火曜日まで行われることに。
Jahiさんの生命維持はとりあえず来週火曜日まで行われることに。
病院はJahiさんを郡の検死官に送り、
そこでJahiさんは公式に死亡したこととなる。
そこでJahiさんは公式に死亡したこととなる。
検死官事務所によれば、いったん死亡証明書が出た後は、
その遺体をどうするかは遺族に任されることになる。
その遺体をどうするかは遺族に任されることになる。
家族の弁護士によれば、数か所の施設が受け入れを表明しているとのこと。
しかし、合意ではJahiさんを移送する間の生命維持を病院側に求めていないし、
外部の医師が病院の敷地内でそれらの措置をすることを認めたわけでもない。
外部の医師が病院の敷地内でそれらの措置をすることを認めたわけでもない。
病院側は医療施設に手術は強要できないという意味で
重要な医学的また法的な病院側の勝利だ、としている。
重要な医学的また法的な病院側の勝利だ、としている。
この事件で、というか
こうした「無益な治療」訴訟のニュースを追いかけてきた中で
改めて今回のニュースから気になっていることとして、
こうした「無益な治療」訴訟のニュースを追いかけてきた中で
改めて今回のニュースから気になっていることとして、
① こうした訴訟になるケースで
病院側の姿勢が最初から対立的になっているのでは、と思えること。
時間をかけて患者家族とていねいに話し合おうとする姿勢がないことが
訴訟の多発を招いているのではないか、という懸念。
病院側の姿勢が最初から対立的になっているのでは、と思えること。
時間をかけて患者家族とていねいに話し合おうとする姿勢がないことが
訴訟の多発を招いているのではないか、という懸念。
② この事件での病院側のコメントにも見られるように
個々のケースをめぐる争いに、実際には医療に関する決定権のありかをめぐる
「医療サイドの決定権をいかに守るか」といった、より大きな争いが重ねられていないか。
個々のケースをめぐる争いに、実際には医療に関する決定権のありかをめぐる
「医療サイドの決定権をいかに守るか」といった、より大きな争いが重ねられていないか。
③ そのことが
「患者家族の気持ちに寄り添う医療」という視点を失わせていないか。
「患者家族の気持ちに寄り添う医療」という視点を失わせていないか。
普通に考えたら、
それまでずっと元気にしていた我が子が
大してリスクのない手術を受けたはずなのに、
思いがけない合併症を起こして、あれよあれよという展開のうちに
いきなり「脳死です。死んだのだから呼吸器を外します」と言われても、
親はそれは簡単には受け入れられないだろうし、
それまでずっと元気にしていた我が子が
大してリスクのない手術を受けたはずなのに、
思いがけない合併症を起こして、あれよあれよという展開のうちに
いきなり「脳死です。死んだのだから呼吸器を外します」と言われても、
親はそれは簡単には受け入れられないだろうし、
その混乱や悲しみに寄り添う努力をせずに
ただ「死んだものは死んだんだから」という事務的な対応をされたのでは
よけいに家族はやりきれないし、娘の死の受容もそれだけ難しくなると思う。
ただ「死んだものは死んだんだから」という事務的な対応をされたのでは
よけいに家族はやりきれないし、娘の死の受容もそれだけ難しくなると思う。
(サッデウス・ポウプはこの事件のことをブログで書く際に
「Jahiの死体を他施設に移そうとしている」など
「死体」という言葉を使ったことにも私は大きな違和感があった。
たとえば、ここ → http://medicalfutility.blogspot.jp/2013/12/family-seeks-to-transfer-corpse-of-jahi.html)
「Jahiの死体を他施設に移そうとしている」など
「死体」という言葉を使ったことにも私は大きな違和感があった。
たとえば、ここ → http://medicalfutility.blogspot.jp/2013/12/family-seeks-to-transfer-corpse-of-jahi.html)
④ Jahiさんが受けたのはアデノイド切除の手術。
その術後の合併症で大量の失血から心臓発作を起こしたとなれば、
そこに病院側の過失はなかったのだろうか。
その術後の合併症で大量の失血から心臓発作を起こしたとなれば、
そこに病院側の過失はなかったのだろうか。
Rasouli訴訟でカナダ最高裁、医師らの上訴を棄却:治療中止も同意を必要とする治療(2013/10/19)
病院側の過失がチラつく事例でこうした訴訟が起きているということが
前から気になっている。
前から気になっている。
⑤ 生命倫理学者のRobert Veatchがこの事件について、
「オプションの中から何を選ぶかの選択は、
医学という科学の白黒はっきりした問題ではない」
医学という科学の白黒はっきりした問題ではない」
「それぞれの個人的な宗教や文化的な考え方に基づいて
選択を認めればよいのでは?」
選択を認めればよいのでは?」
それに対してポウプは
CA州の多くの病院の「無益な治療」方針では
Jahiのような病状であれば、生きている患者からも、
生命維持の引き上げは認められているのだから、
確かにVeatchが言うように死の定義そのものの問題ではない、と皮肉を込めて反論。
CA州の多くの病院の「無益な治療」方針では
Jahiのような病状であれば、生きている患者からも、
生命維持の引き上げは認められているのだから、
確かにVeatchが言うように死の定義そのものの問題ではない、と皮肉を込めて反論。
ポウプはヴィーチの言っていることを
全く分かっていないと思う。
全く分かっていないと思う。
医療サイドと患者家族サイドとが
誰かの身に思いがけなく起こった最期を
どのような関係性で向き合いながら
看取り、受け止め、見送り、悼むか、ということ、
誰かの身に思いがけなく起こった最期を
どのような関係性で向き合いながら
看取り、受け止め、見送り、悼むか、ということ、
そのなかで医療がいかに家族の思いに寄り添うか、という問題ではないんだろうか。
そういう姿勢が完全に欠落した合理一辺倒の強権的な姿勢、
なによりも医療の決定権を守ることを第一とする防衛的な姿勢に
家族は最も傷ついているのではないんだろうか。
なによりも医療の決定権を守ることを第一とする防衛的な姿勢に
家族は最も傷ついているのではないんだろうか。