脳死と診断された少女の生命維持をめぐるMcMath訴訟

ここしばらくサッデウス・ポウプの無益な治療ブログが何度も追いかけていた
脳死と判定された少女の生命維持続行をめぐるサンフランシスコの訴訟。

少女はJahi McMathさん。13歳。

先月、オークランドの子ども病院に入院し、
小児睡眠時無呼吸症候群の治療として扁桃腺切除の手術を受け、
術後に重症の合併症を起こした。

「大量の失血があり、その結果、
心停止を起こして脳に酸素が送られなかった」(裁判の書類)ため
先月9日に脳死と診断された。

その2日後に病院は人工呼吸器を取り外そうとしたが
家族が心臓は動いているとして、それに抵抗し提訴。

両親は熱心なクリスチャンで、心臓が打っている限り娘は生きていると主張し、
他の受け入れ先に移せるよう気管切開とチューブ栄養を病院に求めた。

しかし病院側は病院の敷地内ではやらせない、と。

裁判所から診断を求められた医師らも全員がJahiさんを脳死と診断。
これまで3つの裁判所が両親の訴えを却下していた。

3日、Alameda郡最高裁の調停で家族と病院側が合意。

このたびの合意により
Jahiさんの生命維持はとりあえず来週火曜日まで行われることに。

病院はJahiさんを郡の検死官に送り、
そこでJahiさんは公式に死亡したこととなる。

検死官事務所によれば、いったん死亡証明書が出た後は、
その遺体をどうするかは遺族に任されることになる。

家族の弁護士によれば、数か所の施設が受け入れを表明しているとのこと。

しかし、合意ではJahiさんを移送する間の生命維持を病院側に求めていないし、
外部の医師が病院の敷地内でそれらの措置をすることを認めたわけでもない。

病院側は医療施設に手術は強要できないという意味で
重要な医学的また法的な病院側の勝利だ、としている。

NYTのコメントは、当ブログが何度か取り上げてきた
Stanford Center for BioethicsのDavid Magnusで
死亡証明書が出たら引き受ける介護施設はないだろう、と。

また
「正しく診断された脳死から回復した人の報告はない」とも。

A Brain Dead, a Heart Beats On
NYT, January 3, 2013


この事件で、というか
こうした「無益な治療」訴訟のニュースを追いかけてきた中で
改めて今回のニュースから気になっていることとして、

① こうした訴訟になるケースで
病院側の姿勢が最初から対立的になっているのでは、と思えること。
時間をかけて患者家族とていねいに話し合おうとする姿勢がないことが
訴訟の多発を招いているのではないか、という懸念。

② この事件での病院側のコメントにも見られるように
個々のケースをめぐる争いに、実際には医療に関する決定権のありかをめぐる
「医療サイドの決定権をいかに守るか」といった、より大きな争いが重ねられていないか。

③ そのことが
「患者家族の気持ちに寄り添う医療」という視点を失わせていないか。

普通に考えたら、
それまでずっと元気にしていた我が子が
大してリスクのない手術を受けたはずなのに、
思いがけない合併症を起こして、あれよあれよという展開のうちに
いきなり「脳死です。死んだのだから呼吸器を外します」と言われても、
親はそれは簡単には受け入れられないだろうし、

その混乱や悲しみに寄り添う努力をせずに
ただ「死んだものは死んだんだから」という事務的な対応をされたのでは
よけいに家族はやりきれないし、娘の死の受容もそれだけ難しくなると思う。

(サッデウス・ポウプはこの事件のことをブログで書く際に
「Jahiの死体を他施設に移そうとしている」など
「死体」という言葉を使ったことにも私は大きな違和感があった。
たとえば、ここ → http://medicalfutility.blogspot.jp/2013/12/family-seeks-to-transfer-corpse-of-jahi.html)

④ Jahiさんが受けたのはアデノイド切除の手術。
その術後の合併症で大量の失血から心臓発作を起こしたとなれば、
そこに病院側の過失はなかったのだろうか。

米国のベタンコート訴訟は
がんの切除手術は成功したにもかかわらず、
術後にICUで人工呼吸器が外れる事故で無酸素脳症となり、
永続的植物状態となった70代男性の生命維持をめぐる訴訟だった。


またカナダのラスーリ訴訟も、
脳の良性腫瘍の手術は成功したものの
術後に細菌性の髄膜炎から植物状態と診断された患者への
生命維持続行をめぐる訴訟だった。


病院側の過失がチラつく事例でこうした訴訟が起きているということが
前から気になっている。

生命倫理学者のRobert Veatchがこの事件について、

「(なぜ)アメリカの法律は
Jahiの両親やその他、別の考えうる範囲の定義を持った人たちにまで
一つの死のスタンダードを押し付け続けているのか」

「オプションの中から何を選ぶかの選択は、
医学という科学の白黒はっきりした問題ではない」

「それぞれの個人的な宗教や文化的な考え方に基づいて
選択を認めればよいのでは?」

それに対してポウプは
CA州の多くの病院の「無益な治療」方針では
Jahiのような病状であれば、生きている患者からも、
生命維持の引き上げは認められているのだから、
確かにVeatchが言うように死の定義そのものの問題ではない、と皮肉を込めて反論。


ポウプはヴィーチの言っていることを
全く分かっていないと思う。

問題は「死の定義」ではなく、
カリフォルニア州の病院の「無益な治療」方針がどうだということでもなく
決定権がどちらにあるかという問題ですらなく、

医療サイドと患者家族サイドとが
誰かの身に思いがけなく起こった最期を
どのような関係性で向き合いながら
看取り、受け止め、見送り、悼むか、ということ、

そのなかで医療がいかに家族の思いに寄り添うか、という問題ではないんだろうか。

そういう姿勢が完全に欠落した合理一辺倒の強権的な姿勢、
なによりも医療の決定権を守ることを第一とする防衛的な姿勢に
家族は最も傷ついているのではないんだろうか。