電話

先週の某日。

温かくなってきてお天気も良かったので、
もはや住む人のいなくなった実家へ風を通しに行った。

母は何年も病院で寝たきりになっていたし、
一昨年まで父が一人で暮らしていたのだけれど、

その父が一昨年の秋に亡くなり、
それから半年後に兄、またその半年後に母が、相次いで他界した。

父の死後、兄とは何度も実家で落ち合っては
色んな相談をしたり、一緒に書類を探し回ったりしたので、
実家へ行くたびに身に沁みて感じられるのは、兄の不在。

2階の居間には、
「兄の不在」が「いる」という感じがする。

2階の窓という窓を盛大に開け放ち、
1階へ降りて、開けっ放しておいても大丈夫な窓を開けて回ってから、
しばし出かけて、ヤボ用を済ませて戻り、

また2階から順に窓を閉めて回ってから、
「さぁ、帰ろう」と玄関で靴を履いていたら、

スマホが鳴った。

ディスプレイを見ると、夫の携帯。

「はいはい。もしもし」

しかし、応答はない。

何やら、雑音はたくさん聞こえてくるのだけれど、

「もしもし? もしもし?」

何度呼びかけても、返事はない。

とっさに頭に浮かんだのは、
もしや、夫は何らかの事情で窮地にでも陥っているとか……?

例えば事故に遭って、身動きが取れない状況で
助けを求めようと電話してきているとか……?

ちょっと気持ちが焦る。

「もしもし? お父さん? お父さん?」

しかし、声を張って呼べども、呼べども
雑音だけで、返事はない。

おかしい。

とりあえず、いったん切って、
こちらからかけてみることにする。

しばし呼び出し音が続いた後で、

「もしもし」

応えたのは夫の尋常な声。

「お父さん?」
「うん。どうした?」

「いま、電話してきたじゃろ?」
「え? 電話? してないよ」

「うそ」
「電話? お母さんに? かけとらんよ」

「え? でも、かかってきたよ。今いま」
「うそー。かけとらんし」

「……あのね、私、いま、実家に風を通しに来とるんよね。
それで、今から帰ろうと思って、玄関で靴を履こうとしとったの。
そこへ、電話がかかってきて、お父さんからじゃったのに、
何の応答も無くて、雑音ばっかりひどかった……」

「でも、かけてない……もしかして、
僕はかけてないけど、携帯の履歴を見たら、
かけた発信履歴が残っとるんじゃろうか……」

「……お父さん、この続きは、
今夜、家に帰ってからにしよう」

「……うん。そうしよう」

で、切った。

そして、夕刻の我が家――。

会社から帰ってきた夫の携帯には、
私がかけた着信履歴と、そのちょうど1分前の発信履歴が残っていた。

でも、夫はかけていないと言う。

そもそも、私がかけた時、
夫は会社のトイレに入っていたので
電話に出るのに手間どったのだという。

つまり、夫の発信履歴が残っている時刻、
彼は会社でトイレに向かって歩行中だった。

明らかに、電話をかけてなどいないし、
携帯電話を手にとった覚えすらない。

夫の携帯は今なお二つ折りのガラケーなので、
電話をかけるためには、何よりもまず最初に、その二つ折りを開かねばならないし、

夫の携帯には短縮ダイアルが無いので、
開いた上で、最低でも2回は「ピッ」という操作をしなければ、
私の番号に電話はかけられない。

でも、実際に、その時刻に
夫の携帯から私のスマホに電話はかかってきた。

いったい誰……?

かかってきたのは、
実家の玄関をまさにこれから出ようと
靴を履いているタイミングだった。

誰かが、帰ろうとする私に、
何か、し忘れていることがあると知らせたくて、
かけてきたんだろうか……。

夫と一緒につらつらと考えてみるに、
心当たりが一つ、ないわけでもない……。

でも、そうだとすると、
かけてきたのは、もうずっと前に亡くなった祖母ということになる……。

兄ちゃんかとばかり思っていたけど、なんと、ばあちゃん……?

ううむぅ。

そんなことって、あるんだろうか。

……あるのかもしれない。

わかったよ。ばあちゃん。
じゃぁ、それをやりに、また近いうちに行くよ。

しっかし、参ったなぁ。
電話、かけてくるかなぁ。