トニー・ブランドの本当の悲劇とは何か (後)

ブランド事件を巡るシンガーの論理は
ブランドの第1の悲劇は事故に遭ったことであるとしても
生物学的な意味において人命であるにすぎない状態で生かされるという「第2の悲劇」は避けよう、
というもの。

それに対して、土井氏は以下のように言う。

トニー・ブランドの本当の悲劇とは、彼について
誰も別の経験をしてくれる人がいなかったことのほうにあるのではないか。


シンガーは尊厳概念の形骸化を批判し、形骸化した尊厳が何になるか、と言っているが、

カッパドキア教父のグレゴリオスは
レプラの人々を指して「この人たちは人間だ」と叫んだ。
そこに人格的な関わりがあって初めて尊厳という概念が出てくるのである。

シンガーがブランドについて書いたものを読むと納得してしまう人が多いが、
シンガーのような考え方が一般的になっていることそのものが
人間の尊厳概念の形骸化なのではないか。

形骸化していないところに戻れば、
決してトニー・ブランドを巡ってシンガーのような議論にはならない。


土井氏のこのご著書、読みたい。
『司教と貧者 ニュッサのグレゴリオスの説教を読む』新教出版社 2007)


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この講義を聴いて帰ってきて、
ブランド事件についてのエントリーを読み返してみたら、
コメント欄でのやり取りの中からいろいろ自分の考えが展開していて、

あぁ、そういえばこの頃(今年の3月)、
『死の自己決定権のゆくえ』の原稿を必死で書き進めているところだったなぁ、と振り返る。

そのタイミングで
シンガーのブランド訴訟に関する第4章を読む機会があったということに
どれほど拙著の骨格を補強してもらえていたか、改めて感謝する思い。


なので、いくつか3月15日から16日にかけて
コメント欄でのやり取りを通じて深まっていった考えの断片を以下に抜いてみたい。

日本の消極的安楽死法制化議論でもそうなんだけれど、法制化推進の立場に立つ人は「死の自己決定権を認めるか、それとも何が何でもあらゆる手を尽くして生かそうとする原理的な生命尊重か」という議論の構図を勝手に描いて、後者の立場がいかに非人道的であるかを論じることで前者を正当化する、という議論が多いような気がするのだけど、でも「何が何でもあらゆる手を尽くして命は長引かせなければならない」とまで主張するほど原理的なことを言っている人って、実はほとんどいないんじゃないだろうか。

これは土井氏が言われた
キリスト教が生命至上主義を主張しているとシンガーが批判していることへの
反論とも通じていくと思う。


判事たちは誰もそういう表現では語っていないものを、『生物学的な意味においてだけ人命であるにすぎないような生命に自分は価値を認めない』とシンガーが自分の言葉に置き換えて見せる時に、そこには「生物学的な意味においてだけ人命であるにすぎないような生命」と彼が捉えている存在に対するシンガー自身の蔑視が滲んでいるような気がする。

そして、「意識は不可逆的にまったく喪失されている」ということを「生物学的な意味においてだけ人命であるにすぎない」という表現に置き換えることによって実はそこには価値判断が追加されているのに、それが見過ごされていくのは、その同じ価値判断を共有している人が実は世の中には多いからなのだろうし、線引きがこんなにもやすやすと動いていくカラクリの一つはそこにあるんじゃないのかなぁ、と。

「意識がない人」のことを語りながら、でもそれを語っている人の意識の一枚下では実はもっと幅広い障害像の人までが「生命学的な意味においてだけ人命であるにすぎないような生命」と捉えられている、ということが起こっているわけで、そこでは「○○という一定の状態になったら、意識はあってもなくても大差はない」と、語られていない線引きの拡大が予め行われ許容・前提されている。だからこそ、これは偏見や差別の問題ということになるんじゃないのかなぁ、と。

裁判官たちはブランドにとって生命維持が本人の最善の利益になるかどうかを検討したけれど、シンガーはそんな検討はしていないし、本当はブランド個人の最善の利益には全く興味がない。なぜなら彼にとってはその個別の検討以前に、ブランドのような人は一律に「生物学的な意味においてだけ人命であるにすぎない」存在だから、検討する以前から答えは出ている。

個別検討には目の前の特定の人の現実の状態の慎重な確認や、その人の持っているはずの価値意識の丁寧な確認も含まれているはずなのだけれど、シンガーは本人の利益には実はまったく無関心だから、そこだけは論理ではなくて、社会に対して「だって、ほら、こんな状態になってまで生きていたいなんて、誰も思わないよね」と、「誰だってそう思っている」論法ですりぬけてしまう。そして「本人の最善の利益」論にあたかも基づいているかのような論理展開を装いつつ、個別の最善の利益検討を無用にした「パーソン論」による一括の命の切り捨てを正当化してしまう。