トニー・ブランドの本当の悲劇とは何か (前)
テーマは、人間の尊厳で、
前のブログで2つのエントリーを書いている英国のトニー・ブランド訴訟(1993)をめぐっての議論。
前のブログで2つのエントリーを書いている英国のトニー・ブランド訴訟(1993)をめぐっての議論。
たいへん感銘を受けたので、簡単なメモとして。
なお、ブランド訴訟に関するこれまでのエントリーは以下。
ロンドンの保護裁判所、植物状態の女性の栄養と水分停止を認める:Tony Bland判決(1993)基準に(2011/8/4)
Tony Brand訴訟(英1993):植物状態患者から栄養と水分の停止を認める(2013/3/14)
ロンドンの保護裁判所、植物状態の女性の栄養と水分停止を認める:Tony Bland判決(1993)基準に(2011/8/4)
Tony Brand訴訟(英1993):植物状態患者から栄養と水分の停止を認める(2013/3/14)
そういえば、下のほう、今年3月のエントリーは、
この土井氏の講義があることを知り、それを機に
シンガーの本を読み返して書いたものだった。
この土井氏の講義があることを知り、それを機に
シンガーの本を読み返して書いたものだった。
土井氏はキリスト教神学者で、講義はまず、
神の似像として創られた人間のうちに神を見る、とする「人間の尊厳」という概念が
どのような変遷をたどってきたかを「誰を『人間』とするのか」という問いに沿って概観。
神の似像として創られた人間のうちに神を見る、とする「人間の尊厳」という概念が
どのような変遷をたどってきたかを「誰を『人間』とするのか」という問いに沿って概観。
愛されるべき人間、尊厳を認められるべき人間とは当初、
王であり、権力者であり、強者であり、それを言う人が属する社会の内部の人間であり、
社会の中心にいる人々のことであり、社会の周縁の人々は含まれていなかった。
(それは日本の昔話の「鬼や山姥とは誰であったか」にも通じる、という話が面白かった)
王であり、権力者であり、強者であり、それを言う人が属する社会の内部の人間であり、
社会の中心にいる人々のことであり、社会の周縁の人々は含まれていなかった。
(それは日本の昔話の「鬼や山姥とは誰であったか」にも通じる、という話が面白かった)
彼らは貧者の中にキリスト・神を見た。そうして、
すべての人を同じ人間と捉え、すべての人間に尊厳があるという捉え方が生まれていく。
すべての人を同じ人間と捉え、すべての人間に尊厳があるという捉え方が生まれていく。
(ここで私が考えたのは、
貧者の中にキリストを見ることができるのは、
貧者に直接的に触れた経験のある人だけだ……という問題だった)
貧者の中にキリストを見ることができるのは、
貧者に直接的に触れた経験のある人だけだ……という問題だった)
このように土井氏は人間の尊厳を
人間が長い時間をかけて形作ってきた共通の「価値」と捉える。
人間が長い時間をかけて形作ってきた共通の「価値」と捉える。
まず、
シンガーが批判しているのは形骸化してしまった「人間の尊厳」であり、
形骸化を批判しているのだ、という理解を示したうえで、
シンガーの論理はスマートで納得できるとしつつ、
キリスト教神学者としての立場から納得できない点を上げて反論。
シンガーが批判しているのは形骸化してしまった「人間の尊厳」であり、
形骸化を批判しているのだ、という理解を示したうえで、
シンガーの論理はスマートで納得できるとしつつ、
キリスト教神学者としての立場から納得できない点を上げて反論。
ここで土井氏が例えとしてあげた
「有機的な生命体としての人体は資源の宝庫だけれど、
人間をそのような資源の宝庫として生かし続けることの倫理性を考えてみればよい」
という指摘は、取り立ててそういう問いとして考えたことがなかったので、新鮮だった。
「有機的な生命体としての人体は資源の宝庫だけれど、
人間をそのような資源の宝庫として生かし続けることの倫理性を考えてみればよい」
という指摘は、取り立ててそういう問いとして考えたことがなかったので、新鮮だった。
マコーミックは脳機能によって
場合によっては障害のある新生児を死なせることも認められるという立場をとった。
場合によっては障害のある新生児を死なせることも認められるという立場をとった。
しかし、そこで土井氏が問うのは
「脳機能だけでよいのか」「人格的な関係性をどう確認していくのか」。
「脳機能だけでよいのか」「人格的な関係性をどう確認していくのか」。
で、ここで出た土井氏の言葉は
関係性とは経験の現実である。
土井氏は、
シンガーが引用しているブランド訴訟でのホフマン判事による
トニーの状態の描写について、
シンガーが引用しているブランド訴訟でのホフマン判事による
トニーの状態の描写について、
これはトニーについて何も知らない、
トニーとの間に人間的な関係がない人が見ている姿に過ぎない、と指摘。
トニーとの間に人間的な関係がない人が見ている姿に過ぎない、と指摘。
トニー・ブランドとは果たして
ホフマン判事が見ただけの人でしょうか?
ホフマン判事が見ただけの人でしょうか?
そして、もしもトニーのことを大事に思っている人が
彼のことを語ったらどうなるかという仮想によるトニー・ブランドの描写が提示される。
彼のことを語ったらどうなるかという仮想によるトニー・ブランドの描写が提示される。
それは
トニー・ブランドについて別の経験をする人だっている、
別の経験だって可能だということ。
それならトニー・ブランドがいる、ということは決して無意味ではない。
別の経験だって可能だということ。
それならトニー・ブランドがいる、ということは決して無意味ではない。
彼が母親の医療を続行したことを「言行不一致」と批判する人がいるし、
それに対して「シンガーも人間らしいところがあるんだ」と擁護する人がいるけれど、
私はどちらも的が外れていると思う。
それに対して「シンガーも人間らしいところがあるんだ」と擁護する人がいるけれど、
私はどちらも的が外れていると思う。
シンガーが批判されるべきは、
自分にとって母親が二人称の関係でしかない経験をし、それを肯定したことではなく、
自身はそういう体験をしていながら、彼の議論では依然として
すべての人間が三人称の関係の中でしか捉えられていない、
誰にも二人称の関係性が許されていないことのほうだと思う)
自分にとって母親が二人称の関係でしかない経験をし、それを肯定したことではなく、
自身はそういう体験をしていながら、彼の議論では依然として
すべての人間が三人称の関係の中でしか捉えられていない、
誰にも二人称の関係性が許されていないことのほうだと思う)
(次のエントリーに続きます)