トニー・ブランドの本当の悲劇とは何か (前)

関西学院大学の土井健司氏の講義を拝聴する機会があった。
(「読んだ」わけじゃないけど「聴いたもの」として、「読んだもの」の書庫に)

テーマは、人間の尊厳で、
前のブログで2つのエントリーを書いている英国のトニー・ブランド訴訟(1993)をめぐっての議論。

たいへん感銘を受けたので、簡単なメモとして。


そういえば、下のほう、今年3月のエントリーは、
この土井氏の講義があることを知り、それを機に
シンガーの本を読み返して書いたものだった。


土井氏はキリスト教神学者で、講義はまず、
神の似像として創られた人間のうちに神を見る、とする「人間の尊厳」という概念が
どのような変遷をたどってきたかを「誰を『人間』とするのか」という問いに沿って概観。

愛されるべき人間、尊厳を認められるべき人間とは当初、
王であり、権力者であり、強者であり、それを言う人が属する社会の内部の人間であり、
社会の中心にいる人々のことであり、社会の周縁の人々は含まれていなかった。
(それは日本の昔話の「鬼や山姥とは誰であったか」にも通じる、という話が面白かった)

周縁の人々(貧者)を人間と捉え彼らにもまなざしを向けていったのは、
カッパドキアの3教父

彼らは貧者の中にキリスト・神を見た。そうして、
すべての人を同じ人間と捉え、すべての人間に尊厳があるという捉え方が生まれていく。

(ここで私が考えたのは、
貧者の中にキリストを見ることができるのは、
貧者に直接的に触れた経験のある人だけだ……という問題だった)

このように土井氏は人間の尊厳を
人間が長い時間をかけて形作ってきた共通の「価値」と捉える。

その後、土井氏はピーター・シンガーの『生と死の倫理―伝統的倫理の崩壊』の
第4章『トニー・ブランドと人命の神聖性』を取り上げて論じる。

まず、
シンガーが批判しているのは形骸化してしまった「人間の尊厳」であり、
形骸化を批判しているのだ、という理解を示したうえで、
シンガーの論理はスマートで納得できるとしつつ、
キリスト教神学者としての立場から納得できない点を上げて反論。

まず
キリスト教は必ずしも生命の神聖性を原理的に主張しているわけではない。

ここで土井氏が例えとしてあげた
有機的な生命体としての人体は資源の宝庫だけれど、
人間をそのような資源の宝庫として生かし続けることの倫理性を考えてみればよい」
という指摘は、取り立ててそういう問いとして考えたことがなかったので、新鮮だった。

生命とは、より高次の善に資する限りにおいて(つまり人格的な関係性が維持できる限り)尊いとする
マコーミックのバイタリズム(生命至上主義)の否定論を紹介。

マコーミックは脳機能によって
場合によっては障害のある新生児を死なせることも認められるという立場をとった。

しかし、そこで土井氏が問うのは
「脳機能だけでよいのか」「人格的な関係性をどう確認していくのか」。

で、ここで出た土井氏の言葉は

関係性とは経験の現実である。

(この言葉には大いにコーフン。
直前に考えていた「貧者と直接触れる経験があって初めて」という問題そのものだったから。

また、その「経験の現実」こそ、重症障害のある子どもの親としての私自身が
ブログを通じて描き、伝えようとしてきたものでもあったから)

土井氏は、
シンガーが引用しているブランド訴訟でのホフマン判事による
トニーの状態の描写について、

これはトニーについて何も知らない、
トニーとの間に人間的な関係がない人が見ている姿に過ぎない、と指摘。

トニー・ブランドとは果たして
ホフマン判事が見ただけの人でしょうか?

そして、もしもトニーのことを大事に思っている人が
彼のことを語ったらどうなるかという仮想によるトニー・ブランドの描写が提示される。

それは

トニー・ブランドについて別の経験をする人だっている、
別の経験だって可能だということ。

それならトニー・ブランドがいる、ということは決して無意味ではない。

(ここで私の頭に浮かんだのは、
シンガーが認知症末期の母親の医療を続行したこと。
彼にとって母親は単なる「認知症の患者」でも「ノンパーソン」でもなかった、ということ。

彼が母親の医療を続行したことを「言行不一致」と批判する人がいるし、
それに対して「シンガーも人間らしいところがあるんだ」と擁護する人がいるけれど、
私はどちらも的が外れていると思う。

シンガーが批判されるべきは、
自分にとって母親が二人称の関係でしかない経験をし、それを肯定したことではなく、
自身はそういう体験をしていながら、彼の議論では依然として
すべての人間が三人称の関係の中でしか捉えられていない、
誰にも二人称の関係性が許されていないことのほうだと思う)


次のエントリーに続きます)