斎藤貴男『安心のファシズム』


……日一日と荒廃し、弱者の怒りがより弱い立場の人々へと仕向けられているこの国の社会……
(p. 106)


 騙されつつ、しかし多くの人は自らの置かれた立場にどこかで感づいている。積もり積もった不満や不安を、だからといって権力を有する元凶にぶつければ報復が怖い。より立場の弱い人々に八つ当たりし、あるいは差別の牙を剥いて、内心の安定を図るようになっていく。
(p. 22)


20世紀ソビエト文学の異端者として知られる作家ザミャーチン
ディストピア小説『われら』からの引用。

 飛行機の速度=0 
なら、飛行機は動かない。
 人間の自由=0
なら、人間は罪を犯さない。それは明白である。人間を犯罪から救い出す唯一の手段は、人間を自由から救い出してやることである。
川端香男里訳、岩波文庫、1992)



その後、著者は次のように書く。

 日本の監視カメラ網はまさにこの方向に向かって暴走している。支配される側に位置づけられてしまった人々は、にもかかわらず、誰も、何も考えようともしない。
(上とも、p. 156)


監視社会については私もずいぶん様々な情報を拾いながら考えてきた。
その多くは以下のショッキングな話題のエントリーにリンクしてあるのだけれど、


このエントリーの最後に書いているように、
私は監視カメラの話題に触れるたびに
映画『踊る大捜査線』のシリーズ1の
監視カメラのモニタールームのシーンを思い出す。

あの映画が公開された頃には、町中に監視カメラが広がりつつある現実は
まだ見る側にとってあれほど不気味だったし、あんなにも大きな衝撃を与えたはずなのに、
こんなにも早く、私たちはそうした社会のありように馴染み、
それを受け入れて抵抗を感じなくなってしまうのだということに、
あの映画のシーンをはるかに越える不気味さ味わいながら。


……グローバリゼーションの名の下に、市場経済の邪魔になる要素を排除していけば、ただでさえ存在する貧困や差別がますますひどくなるのは当然だ。新自由主義とは必然的に、犯罪の温床になり得る不幸を拡大生産していく宿命を伴うのだ。
 逆に言えば、犯罪の原因を解決しようとすれば、新自由主義は成立しない。国際的な南北問題の文脈で捉え直せば、このメカニズムはよりスケールアップして人々に地底的なダメージを与え、いわゆるテロリズムを、これまたインキュベート(孵化させる)していくことになる。
 何のことはない。犯罪やテロリズムのない世界を目指そうとするなら、新自由主義の発送そのものが改められなければならないのに、現実はまるで正反対だ。新自由主義が招く犯罪やテロリズムに対する教父が、その新自由主義をさらに徹底していくために煽られる悪循環。
(p.168-9)


これは、そのまま前のブログで、
グローバルな新自由主義の下で強大になっていく
慈善資本主義に感じてきた矛盾でもある。