角田光代『ツリーハウス』


重厚な長編なんだけれど、
どうしても途中でやめられなくなって
出張先のホテルで2時まで読みふけった。

角田光代って、こんな小説を書く作家になってたんだ……。
角田光代に、こういう小説を書かせる時代なんだ……。

読んでいる間、それを交互に思い続けた。

Amazonの内容紹介はこちら。

一家三代『翡翠飯店』クロニクル。伊藤整文学賞受賞作

謎の多い祖父の戸籍――祖母の予期せぬ“帰郷”から隠された過去への旅が始まる。すべての家庭の床下には戦争の記憶が埋まっている。


以下、特に印象に残った箇所を抜粋。
(ゴチックはすべてspitzibara)

 景気がよくなって、ますます浮かれていく世のなかは、ヤエにしてみれば新京の町を思い出させた。でもあのとき、快進撃だ、勝利は目前だと庶民は聞かされていたが、そんなのは嘘っぱちだった。嘘っぱちと知らずにみんな浮かれていたのだった。浮かれたまま、自分たちにはどうしようもない力に押し流されていったのだ。今もそうなんじゃないかと、ヤエはふとしたときに思う。闇市を徘徊していた人々は、今やそんな記憶をすっかり失ってしまったように、子どもたちを引き連れて動物園で象を見、デパートの食堂でライスカレーを食べ、にこにこと笑顔で記念写真を撮っているけれど、もしかして、今もまた私たちは押し流されているだけなのかもしれない。私たちのあずかり知らぬところで、何かが決定されていて、明日には、次の月には、次の年には、またすっからかんに何もかもを失って、顔に墨を塗りたくって、物乞いをして歩くのかもしれない。いや、おそろしいのは、物乞いをすることではない。どこに押し流されているのか自分たちではわからないことだ。
(p.186-7)


 テレビの騒々しい音声、新年を待つ浮き足立った客たちの声、食器のぶつかる音、父と母が料理の順番で短くののしりあう声、疲れただるいとひっきりなしの今日子のつぶやき声、注文を叫ぶアルバイトの女の子の甲高い声、それらの合間に沈んでいくように慎之輔は黙々と食器を洗い、そして、この店を継ぐか、と考えた。ここでずっとこうして背を丸め、食器を洗い、親父のようにフライパンを振るい、店じまいをしてコーヒーを飲んで、そうして暮らしていくか。それは今まで思い描いていた暮らしと気が遠くなるほど異なって、地味で貧乏くさくてよろこびやたのしみの一片すら見つけられそうになかった。ここでの生活に、かつても今もほしいと思うものなどひとつもないように、慎之輔には思えた。
……(中略)
 逃げちゃいけないのだと、慎之輔はあらためて思う。よろこびもたのしみも一片もないとしても、ほしいものなど何ひとつないとしても、地味で貧乏くさいここから逃げちゃいけない。
(p. 283)


……父は新聞に顔を落としたまま、ぼそりと低い声でつぶやく。
「逃げろ、と言ったんだ」
 慎之輔と今日子は意味が分からず顔を見合わせた。
「そこにいるのがしんどいと思ったら逃げろ。逃げるのは悪いことじゃない。逃げたことを自分でわかってれば、そう悪いことじゃない。闘うばっかりがえらいんじゃない」
(p. 386)


 祖父と祖母が、それぞれ何を目指しどう思ってこの町へやってきたのか、良嗣には想像する術もない。祖母は自分がどこにきたのかずっとわからなかったのではないかと昨日考えたことを思い出す。祖母は今日、気づいただろうか。すべて手放して、子どもも失って、恩人も裏切って、命からがら逃げ帰ってきて、でもその先で自分たちがきちんとたどり着いたと気づいただろうか。いや、たどり着いたのではない、作り上げたのだ。狭くて汚くてごたついていて油じみてはいるものの、それでもやっぱりあの店とあの家は、祖父母が目指してたどり着けず、だからやむなく作り上げた紛うことなき新天地だったのだと良嗣は思う。
(p.440)


「あの人も私もね、逃げて逃げて生き延びたろう。逃げるってことしか、時代に抗う方法を知らなかったんだよ。もちろんそんな頭はない。なにか考えがあってのことじゃない。ただ馬鹿だから逃げたってだけだ。だけどさ、そんなだったから、子どもたちに、あんたの親たちにね、逃げること以外教えられなかった。あの子たちは逃げてばっかり。私たちは抗うために逃げた。生きるために逃げたんだ。でも今はそんな時代じゃない。逃げるってのはオイソレと受け入れることになった。それしかできないような大人になっちまった。だからあんたたちも、逃げるしかできない。それは申し訳ないと思うよ。それしか教えられること、なかったんだからね」
 そう言って祖母は笑った。
(p.464-5)


うまく言えないんだけれど、
このエントリーで佐野洋子さんが言っていたこととか、
文藝別冊 佐野洋子(2014/12/18)

それを受けて、12月19日のメモ
hijijikikiさんとやりとりしたこととかに通じる何かが、

今という時代の危うさへの著者の認識とともに、
ここには書かれている、という気がする。