「どんなに重度な人でも」と置き去りにされる「重症児者のニーズ」 4

個人的な体験を中心に1から3のエントリーを書いた後で、ちょっと気になったので、
客観的な情報や以前ブックマークで拾っていた事例の関連情報から、
4として主に「合併症」について追記してみました。


重症障害児者では
障害の原因となっている中枢神経系のインペアメントそのものは変わらないけど、
時間経過と共に様々な合併症が起きてくるため、
ディスアビリティそのものは「進行」する、とも言え、

そこには、障害のない人での年齢による機能低下とは異なった側面がたくさんある。

一つの大きな節目は思春期。

急激な成長で咽頭が伸びて嚥下のタイミングがとりにくくなって誤嚥性肺炎を繰り返すとか、
側わんなど体の変形がひどくなったり、
ホルモンのバランスが崩れて、てんかんの発作がひどくなったり。

私も、海の思春期を前に、
思春期にはけいれん発作がひどくなるよ、といろんな人に言われて、
本当に怖かった。

海は実際、ちょっと違う形の発作が出たけど、そのうちに収まった。

ただ、背が急に伸びたことで、あちこちの拘縮が進んだり、
股関節の脱臼が起きたり、側わんが急にひどくなったのは、この時期。

リハビリテーションなど適切な医療介入によって、
体の変形をある程度は予防することができる。

誤嚥性肺炎も、
食事介助の方法や、咳で痰を出せるよう姿勢やケアを工夫することで、
一定程度まで予防ができる。

誤嚥がその程度を超えた場合には、健康を守りQOLを維持するため
胃ろう、気管切開や、気管喉頭分離術などを検討する。

どちらも、完全に予防することは難しいのだろうけど、怖いのは、
介入ニーズが認識されていなかったために予防できなかった結果は
常に「やむを得なかった」と見なされてしまうことだと思う。
これは2のエントリーで書いた通り。

その他、重症児者によく起こるとされる合併症が、
誤嚥性肺炎、尿路感染症イレウス(腸閉塞)。

さらに、もう一つ、追記しておきたいこととして、
高齢化と共に起こってくる、一般の人と同じ成年期の病気。

これもまた自分で異変を訴えることのできない重症者では発見が遅れがちだし、
重症児者の特性に配慮して治療できる専門医は極めて稀。

1のエントリーで書いたように
一般病院の看護師にも、ただ「看護師だから」というだけで
いきなり重症児者のケアが適切にできるわけではなく、

それでも重症児者ケアの繊細さについて知らない分からない
一般病院の医療職には、その自覚がまず持てないから、

そういう事情を分かっていない介護職から
単に「病院に送ればよい」とか「送るしかない」で済まされたのでは、
重症児者は転院そのものが多大な苦痛となるだろうし、実際、命にも関わる。

(それでも何が起きたのかが「見えない」人には
「重症児だから死んでしまった」ことになってしまうかもしれないから怖い)

このように、障害を「治す」ことはできなくても、
総じて、その進行をなるべく防ぎ、合併症にも留意しつつQOLを維持し、
「重い障害と付き合いながら少しでも豊かに生活する」ことを
医療、看護、介護がチームで「支えて」いるのが重症児者ケアであり、

そこでの医療のあり方については、
ある重症児者施設関係者の以下の表現が言いえて妙だと思う。

胃ろうなどの医療処置だけが『医療』ではない。
重症児者の医療福祉においては、日常生活の中に『医療』がしみこんでいる。


(反面、重症児者に関わる医療職にも、これを分かってもらいにくくて、
無意識のうちに「治す」医療の論理と権威で生活を支配してしまう人もあるので、
私たち親はそういう医療とはまた別途、闘わざるを得ないのも事実)


重症児者施設から地域のケアホームに出たものの、
口から食べ続ける為にまた戻った男性の事例が
ハートネットTVで紹介されている ↓


重症児者施設から地域のケアホームに移って暮らしておられた30代の方。

嚥下に時間がかかることから肺炎を起こして、胃ろうを勧められたけど、
本人は口から食べ続けることを希望したので、
重症児者施設に戻り、摂食嚥下認定看護師とリハビリ職員が摂食嚥下機能を評価。
病棟スタッフが根気よく口からの食事を介助したところ、
口から十分な食事を摂れるようになった。

上記の事例についても、身体障害者視点の運動の論理から、
「自分の摂食能力を見定めたうえで介護をしてくれるパーソナルアシスタントさえいれば何の問題もない話」
例によって「介護さえ保障されれば地域で暮らせる」という認識が示されているけれど、

この人の場合、ケアホームで暮らしていたのだから、
個々に応じた介護という点では、相当程度まで保障されていたはず。

「摂食能力を見定める」ことに求められる専門性や
誤嚥性肺炎リスクの重大性、適切な食形態や適切な介助が提供されることの困難と重要性、
さらに経年的な変化を念頭に対応することの意味など、
ここにもまた「見えていないこと」がいくつもあるのでは?

むしろ、
摂食嚥下に関わる専門的な介入のニーズが十分に認識されていなかったために、
「この人はもう胃ろうにする以外には手はない」
「口から食べるのを諦めるのもやむを得ない」と判断されかけた事例では?
というのが私の理解。

つまり、介護者が専門的な介入のニーズを認識できなければ、
重症児者の嚥下摂食に明るくない医師の判断がそのまま「医学的判断」となり、
「やむをえず胃ろうになったけど、
パーソナルアシスタント(PA)の介護で楽しく暮らしている」という
事例となって終わったのだろうな、と。

もちろん、現実的にその選択肢しかないのであれば
「胃ろうにしてケアホームで暮らし続ける」か
「施設に戻って、口から食べ続ける」ことを選ぶかは
当人が固有の環境と固有の価値観などによって決めることだろうし、

ご自身の身体状況の変化や地域での資源のありようによっては
いずれまた地域に戻られる決断も、ありうるのかもしれない。

が、その際にも、
再び食べられるようになったプロセスに寄与した専門職が
その移行では重要な役割を担うべきだし、
その後の経年的な変化を見越して考えた場合には、
その専門性が継続的に地域の資源ネットワークの中に組み込まれていないと、
この人の健康とQOLは維持されにくいだろうし、
決して「PAの介護さえあれば何の問題もない」ような単純な問題ではないと思う。

そもそも、そうした複雑で微妙な側面がちゃんと見えている人には、
こんなに簡単に「PAさえいれば何の問題もない」なんて
言いきることはできないのだけれど、

「分かっていない」人の常で、
「自分はもしかしたら十分に分かっていないのかもしれない」と
まず気づいてもらうことが、たいそう難しい。

そして、気づこうともしないまま、
たまたま様々な点で恵まれているから可能になっている
ごくわずかな事例を取り上げて「一部だけどこんな事例も出てきている」から、
「どんなに重度な人でも可能」だと、これもまた短絡的に断言されると、

特に相模原の障害者殺傷事件の後の状況下では、それは、
簡単には説明しにくいことを抱えている私たちマイノリティの側にとっては
難儀しながらも説明を試みようと、おずおずと挙げてみる声を
身体障害者中心の運動の論理というマジョリティの恫喝によって
封じられる体験に等しい。

そこにあるのは、
障害があるために障害のない人と同じにはできない障害者の側の現実や事情を
分かっていないし分かろうともしないまま「できない」から「ダメ」と決め付けてきた
社会の能力主義による障害者排除と、まったく同じ構図のように
私には思えるのだけれど。