介護保険等で言われる「介護支援」「家族支援」と「ケアラー支援」の違いとは
と、ある人に問われて、
少しばかり手を入れたものを、以下に。
「介護支援」「家族支援」と「ケアラー支援」の違いは、
簡単に言うと「主役が違う」ということだと思います。
地域包括支援では、どこまでも要介護者が主役であり、みんなの関心の対象者です。
その主役に必要な医療や介護を円滑に行えるための「介護支援」であり「家族支援」。
要介護者に関わる専門職は、ケアラーに話しかける際には、要介護者のことを聞きます。
「この人は、最近どうですか?」「この人は食事が進んでいますか。この人はちゃんと眠れていますか?」
ケアラーは要介護者に関する情報提供者であり、専門職への協力者に過ぎず、
ケアラー自身のことは普通は関心の外です。
ケアラー支援では、関心事がケアラーその人です。
「ケアラーであるあなたは、疲れていませんか?」
「眠れていますか?」「最後に自分一人で外出したのはいつ?」
「仕事への影響は?」と、主役が「ケアラーであるあなた」なのです。
「介護者役割を支援する」のが「介護支援」における「家族支援」であるとしたら、
「介護役割を担っているがゆえの個人の生きづらさを支援する」のがケアラー支援
ということでしょうか。
栗山町のケアラー支援の実践が面白いのは、
ケアラー連盟と一緒にやったケアラー実態調査からすべてが始まった、ということじゃないかと思います。
小さな町だから全戸調査をやり、その多くに当時の社会福祉協議会事務局長の吉田義人さんも同行された。
それまでは「介護者」という透明な脇役だったり単なる役割だった人たちが、
目の前で苦しんでいる姿を見、辛さを語る声を聞いた時に、吉田さんご自身が、初めて
「○○さんの介護者」ではなく「介護に苦しんでいる△△さん」を見られたんだと思います。
その吉田さんの体験と感性、その後の実践が、
栗山町で体現されたケアラー支援そのもののようなところがある。そんな気がします。
それから、この点はケアラー連盟の公式見解ということではないのですが、
私の個人的な理解では、欧米のケアラー支援の要諦は、
本当は「介護したくない」と言える選択が認められていること。つまりケアラーの権利擁護です。
私の中では、
ケアラー支援とは、「役割」から「一人の人」へのケアラーの復権だと理解しています。
そういう意味では、
特定の支援の方法論の議論というよりも、
ケアラー支援とはむしろ人権運動だというのが私の考えです。
簡単に言うと「主役が違う」ということだと思います。
地域包括支援では、どこまでも要介護者が主役であり、みんなの関心の対象者です。
その主役に必要な医療や介護を円滑に行えるための「介護支援」であり「家族支援」。
要介護者に関わる専門職は、ケアラーに話しかける際には、要介護者のことを聞きます。
「この人は、最近どうですか?」「この人は食事が進んでいますか。この人はちゃんと眠れていますか?」
ケアラーは要介護者に関する情報提供者であり、専門職への協力者に過ぎず、
ケアラー自身のことは普通は関心の外です。
ケアラー支援では、関心事がケアラーその人です。
「ケアラーであるあなたは、疲れていませんか?」
「眠れていますか?」「最後に自分一人で外出したのはいつ?」
「仕事への影響は?」と、主役が「ケアラーであるあなた」なのです。
「介護者役割を支援する」のが「介護支援」における「家族支援」であるとしたら、
「介護役割を担っているがゆえの個人の生きづらさを支援する」のがケアラー支援
ということでしょうか。
栗山町のケアラー支援の実践が面白いのは、
ケアラー連盟と一緒にやったケアラー実態調査からすべてが始まった、ということじゃないかと思います。
小さな町だから全戸調査をやり、その多くに当時の社会福祉協議会事務局長の吉田義人さんも同行された。
それまでは「介護者」という透明な脇役だったり単なる役割だった人たちが、
目の前で苦しんでいる姿を見、辛さを語る声を聞いた時に、吉田さんご自身が、初めて
「○○さんの介護者」ではなく「介護に苦しんでいる△△さん」を見られたんだと思います。
その吉田さんの体験と感性、その後の実践が、
栗山町で体現されたケアラー支援そのもののようなところがある。そんな気がします。
それから、この点はケアラー連盟の公式見解ということではないのですが、
私の個人的な理解では、欧米のケアラー支援の要諦は、
本当は「介護したくない」と言える選択が認められていること。つまりケアラーの権利擁護です。
私の中では、
ケアラー支援とは、「役割」から「一人の人」へのケアラーの復権だと理解しています。
そういう意味では、
特定の支援の方法論の議論というよりも、
ケアラー支援とはむしろ人権運動だというのが私の考えです。