麻生幸三郎論文「インフォームド・コンセントと権利擁護」から「出会い」と「対話」の希望について  1

2014年秋に重症心身障害学会のシンポでご一緒させていただいた、
愛知県心身障害者コロニーこばと学園学園長の麻生幸三郎医師の論文。

『小児内科』Vol.47 NO. 12、2015-12 の特集
重症心身障害2-全身合併症・併発症、療育・社会支援に、
[重症障害に対する療育、家族支援、社会的支援]として、
インフォームド・コンセントと権利擁護」とのタイトルで書かれたもの。
(p.2144-2146)

2014年のシンポでの麻生先生の発表は
『日本重症心身障害学会誌』第40巻第1号 69~70の論文
「重症心身障害児者施設における医療同意の問題」として取りまとめられており、
今回の論文も、大筋としてはそれに沿ったものとなっています。

Key Points として挙げられているのは以下の4点。

① 医療同意は、本人のみに与えられた自己決定権である。
② 代理決定は、本人の推定意思、最善利益に基いて行う。
③ 第三者後見人には医療同意の承諾代行権はない。
④ 代行者がいない場合、医療側は複数の人間が議論し、決定にいたる経緯を文章に残し、公開性を確保する。


が、今回、いくつかの点で2014の発表や論文の内容とは違っている点があって、
そこのところが、私としては特に心に沁みてくる論文でした。
それらの点について、以下に。

「はじめに」 ICの基本事項

まず、これは14年の論文でも書かれていることだけど、
「はじめに」に、とても基本的な、とても大切なことが書かれています。

侵襲的医療行為は、本来、人を傷つける「違法行為」である。しかし、公的な資格のある医療従事者がその必要性、危険性を説明し、患者もそれを十分理解し、判断し、同意した(インフォームド・コンセント)場合に限り、医療行為の違法性が阻却される。重症心身障害児者(重症児者)からは確実な同意が得られないことが多いが、しかし、その場合でも「代理人から可能な限りインフォームド・コンセントを得るべきであり、代理人がおらず、患者に対する医学的侵襲が緊急に必要とされる場合は、患者の同意があるものと推定する」と規定したリスボン宣言(1981年)を念頭において対処すべきである。


私は娘の施設で機会あるごとに「説明してください」とお願いし続けていて、

上記シンポで率直に言わせていただいたように、
娘の施設や周りの親仲間から聞く限り、
少なくとも一部の重症児者施設の日常的なインフォームド・コンセント(IC)文化とは、
「施設だから説明なし」がデフォルトで、「うるさい親にだけは例外的に説明しておけ」
というもののような気がします。

その一方で、
いざ入所の誰かが終末期状態に陥った時になって重大な意思決定をめぐり、
「治療をどうしたいのか、判断してください」と判断を親族に求めても、
「お任せします。よろしくお願いします」しか言ってくれないから
どうすべきか決められなくて施設サイドが困っている、という状況も
何度か間接的に見聞きしてきました。

そういう時、施設側がその事態を、決められない家族のせいにしているような、
モヤモヤとした違和感を私はおぼえるのですが、

それは、私から見れば、家族の「お任せします」は、
日ごろ「説明なし」&「お任せします」のセットをデフォルトとしてきた施設側の
怠慢姿勢のツケなのに? と思えてしまうからです。

でも、実は親も同じ。

「説明してください」と私が療育園の医師にお願いし続けていると、
保護者仲間から「親の中には説明してほしくない人だっているのよ」と
たしなめられたりします。

そして、その同じ人が、
「親が子どもの終末期に延命治療を拒否するのはアリだと、私は思ってますから」と
私にちょっと挑むような口調で言われたりもするのです。

私がブログや本で書いていることを「何が何でも延命しろ」という単純な主張だと
短絡的に受け止めておられるのだろうな、と推測するのですが、

一方でとても不思議なのは、

日常的に医療についての説明など要らないと言い、すべて「お任せ」で、
我が子の状態や治療について何の知識の積み重ねも欠いた親が、
いざ終末期がやってきて大きな意思決定が必要となった際に、
何が必要な治療で何が無用な延命かを、どうやって判断できるというのでしょう?

きちんと知識を積み重ねていても判断が難しい状況で、
日ごろ何も知ろうとせず、知識を積み重ねてもいなければ、
いざという時になって、その時だけいきなり医学的な説明をされたところで、
「お任せします」としか言えないのではないでしょうか。

あるいは、世の中に流布する大雑把な「延命に繋がる医療はすべからく悪」説のまま、
「余計なことは何もしないでください」と答え、何が余計なことなのかの判断は
「お任せします」になるか。

つまり、日常的な医療においては、
施設の医療職側も「親はどうせ素人なんだから黙ってすっこんでいろ」という姿勢で
ICなど意にも介さずに「勝手に決めて勝手にやっておく」という形でラクをし、
親のほうも「お願いします」と頭を下げてすっこんでいれば嫌われることもなく、
自分も医学的な問題について理解したり判断するような面倒を避けてラクをしている。

でも、いざ大きな意思決定が必要になった「(時)点」で、
日常的な医療という「線」のところで行われてきたことのツケがやってくるのだとしたら、
そのツケを支払わされるのは、痛み苦しみを自分の言葉では訴えることのできないまま、
周囲からされるがままになってしまう、重い障害のある当人なのだということを、
私はどうしても考えてしまうので、

麻生先生が、繰り返し、このICの基本を確認するところから話をはじめてくださるのは
とてもありがたいことです。


「本人の意思決定への支援」という視点。

2014年の発表と論文で取り上げられていた事例3つはいずれも、
経口摂食困難となった重症児者への経管栄養の手術をめぐる意思決定の事例でした。

 医療サイドから提案された手術を親が拒否している事例2つ(1例はそのために死亡)と
身寄りのない重症者に施設が最終判断で手術を行った事例。

今回の論文でも事例は3つですが、
医療サイドの提案する手術を家族が拒否した事例が1つ減り、
代わりに追加されている事例がとても興味深いのです。

だいたいのところを私自身の言葉で纏めてみると、以下のようなケース。

 
言葉はないけど、理解はできる人が
重症児者施設での生活を経て、障害者支援施設で暮らしていたが、
誤嚥性肺炎での入院を機に、いったんは胃ろう造設に同意したものの、
直前に本人が経口摂取を希望していると分かったので、
重症児者施設に戻って食形態や姿勢の工夫により本人意思の実現を目指した。
2年間、経口摂取を続け、誤嚥性肺炎の再発はおきていない。


【2016年2月21日追記】
この事例については、HNTVで紹介されていました。
http://www.nhk.or.jp/heart-net/tv/summary/2014-12/03.html


この症例は、
「はじめに」の直後に「Ⅰ.意思決定支援」の項目で紹介されています。

2014年の発表と論文では
本人同意が得にくい重心施設の医療同意の問題という捉え方で、
医療職と家族の見解が異なる場合と、家族がいない人の場合が
議論の射程とされていたのですが、

今回の論文では
まず最初に「Ⅰ.意思決定支援」として、
本人への意思決定支援の項目が立てられています。

その後、「Ⅱ.家族の代行」、
次いで「Ⅲ.第三者成年後見人」。

もちろん重症心身障害児者の定義から言って、
前の論文に書かれていたように本人の確実な同意を得られることは「まれ」であることは、
冷厳とした事実なのですが、それでも重症児者本人の意思について、
まずは以下のことを抑えておくことは、意思決定の倫理問題を考えるにあたって、
やはり、とても大切なことだろうと思うのです。

……表出が不十分なため、意思表明のみならず、理解、判断もできないと即断しがちであるが、実際には、かなりの判断能力を有していることがある。そうした例には、時間をかけ、最大阮の意思決定支援を行い、意思を確認する必要がある。


こうした「本人」への視点の追加には、
今回の論文タイトルが「インフォームド・コンセントと権利擁護」と
されていることの意味深さとも重なって、
ぐぐっと心に熱く迫ってくるものを感じました。

これは、仮に自分で同意することができない人のケースでも、
その人に代わって決めようとする人たちが、
「どうせ本人は分からないし決められないのだから勝手に決めていい」ではなく、
「自分たちは誰のことを誰の代理で決めようとしているのか」と
常に自らを問い返しつつ慎重な姿勢で代理決定に臨むためにも、
とても大事なことのように思うのです。


次のエントリーに続きます)