麻生幸三郎論文「インフォームド・コンセントと権利擁護」から「出会い」と「対話」の希望について 2

前のエントリーからの続きです)


「対話の糸が切れないようにする継続的な努力」

「Ⅱ.家族の代行」の項目で、
「家族の考えが本人を医療で護る方向とは異なる」場合に、
本人の利益を家族が代弁しているのかに疑問を呈したあと、
以下のように書かれています。

しかし、児玉は重症児の親の立場から、医師は「助けるために」という「点」で止まっているが、親は子どもが生まれてからのできごとのなかの「線」の問題として捉えており、「医学的に正しい医師の判断に親が理不尽な抵抗」しているようにみえても、その裏には子どもの障害に傷ついてきた親の痛みがある、と述べている。そして、それを理解しようとする「共感」の姿勢をもってほしいと訴えている。医療側としては、単に否定するのではなく、対話の糸が切れないようにする継続的な努力が求められる。


「子どもの障害に傷ついてきた」という部分は、発表時(文末にリンク)の私自身の表現では、
「我が子から奪っていく者」「我が子に痛苦をもたらす者」としての「障害」に苦しんできた、という下り。

麻生先生はウーレットの『生命倫理学と障害学の対話』を読んでくださってもいるので、
訳者としては、あー、この「対話」にはウーレットの影響も……と、
即座に結び付けて単純に喜びたいところなのですが、

実は、麻生先生がウーレットを読んでくださるよりも以前に、
私自身に、麻生先生が「対話」をしてくださった意味深い体験が2つあります。

というか、この箇所を読んで、
「対話の糸が切れないように」という言葉がじわ~っと心に沁みてくるのを感じながら、
振り返ってみたら、麻生先生は出会いの時からそういう姿勢で接してくださっていました。

先生との出会いは、2014年の重心学会シンポの打ち合わせの席でした。

高谷先生以外は初対面の、しかも学会理事&施設長のお医者さんたちとあって、
私はギンギンに緊張し「今日だけは余計なことは言うまい」と固く心に決めて行ったのでした。

悲しいことに、だからといってspitzibaraが黙っていられるわけでもなく、
先生方が紳士的な対応をしてくださるのを良いことに、
例によって、どこへ行っても年甲斐のない「まっすぐ」「まんま」のまま、

「日本の『本人の最善の利益』は、その場にいる一番エラくて声の大きなお医者さんが
これが最善の利益だと言ったら、誰も反論せずそれで通ってしまう『最善の利益』」だの

「何が同意を要する侵襲度の高い医療かも同様に医療機関ごとに恣意的に決まってる」だの、

「日本の医療機関のIC文化はトップの医師のIC観が決めてバラつきが大きい」だの、

「施設側の都合や職員配置の都合が、親に向かっては『本人のため』と説明されてきた」だの、

「日本版POLSTが普及して、入所段階で緊急時の医療について意思確認がされていますけど、
日本では法的根拠もないのに、家族は出されたら法的根拠がある文書だと思い、
書かないと入所させてもらえないと考えてチェックを入れてしまう、それに、
入所時にどういう緊急事態が起こりうるかなんてわからないし、わからないなら
決めないでおく自由や権利だってあるはずなのに、あれでは決めることの強要ではないですか」
などなど、

今から振り返っても、冷や汗が出るほどの言いたい放題を繰り広げてしまいました。

それは、シンポのお話をいただいた時に、
ついに日本でも「無益な治療」論が表に浮上してきたぞ、という警戒心が
むくむくと頭をもたげていたので、たぶんその現われだったのですが、

同時に、打ち合わせで先生方のお話を伺ってみると、
確かに様々な家族環境にある患者さんの医療をめぐって
意思決定に苦慮しておられる医療現場の実情が私にも具体的に了解されてきて、
改めて問題の複雑さを痛感し、衝撃を受けたことも影響していました。

先生方も「spitzibaraさんの言っていることは理解できるけど、だからといって
何も決めておかないというわけにはいかない状況が現場にはある」と口々に言われましたし、

私のほうも「先生方の事情は分かるんですけど、でもお医者さんたちみんなが
先生方のように意識も倫理観も高いというわけではなく、地方では未だに
『ICって、学校で習われませんでした?』と聞いてみたいような医師が少なくないので、
先生方を基準に議論してもらうと、地方在住の親としてはたいへん困るのです」と
言わざるを得ない気分で。

そんな中で麻生先生が、「日本版POLST」について、
「緊急時の医療について家族の意思確認をするのは、
外部医師に当直をお願いせざるを得ない状況を前提に、どこでもやっていることだし、
 やるのが当たり前だとしか考えていなかった。sptizibaraさんの話を聞いて
そういう見方もあるのかと、初めてそこに目が向いた」とおっしゃったのが印象的でした。

そして、学会の後しばらく経ってから、
私が仕事で名古屋に行った際に、こばと学園に見学にお邪魔させてもらうと、
学園で使用されている緊急時の医療についての意思確認の用紙を出され、
師長さんと一緒に、「率直な意見を聞かせてほしい」とおっしゃいました。

その時も私のことですから、
時間と手間がかかっても、あくまでも固有の患者さんの固有の状況に即した対応でないと
本当の意味での信頼関係を築くことにはならないのでは、といった点を中心に、
本当に「率直」なところを縷々、申し述べさせていただいたのですが、
先生も師長さんも真摯に耳を傾けてくださって、

「spitzibaraさんの言うとおりにできるかは難しいが、
いずれ検討する場を設け、そこに保護者の代表も加わってもらって
みんなで話し合ってみます」

私はどこへ行っても「まっすぐ」「まんま」なので「率直」にしかものが言えず、
つい医療についてもウッカリ「率直」をありのままに吐露してしまっては、
医療職の方々から「患者の分際で何をエラソーに」といった感情的な反発で
頻繁にぶったたかれてきました。

でも、ありがたいことに
10人に1人くらいの割合で、正面から受け止めてくださる医療職とも出会えるので、
この悪癖が修正されないまま、この歳に至ってしまったわけですが、
麻生先生との出会いと「日本版POLST」をめぐっての先生の対応は、
またまた私に「やっぱり人は信じてもいいんだ」と思わせてもらえる
久々の体験でした。

もう一つ、麻生先生との「出会い」と「対話」から私自身が大きく揺さぶられ、
重心学会での発表の姿勢が逆転するほどの大きな影響受けたエピソードについては、
ちょっと詳細に書いてみたいので、また改めて別のエントリーに。

ともあれ、シンポ打ち合わせの席での
ほぼ「言いがかり」みたいな私の「日本版POLST」批判に
先生が改めて耳を傾けてみようと「対話」の糸をつむいでくださったことを思うと、
この論文の「対話の糸が切れないようにする継続的な努力」という言葉は重く、
その重みがじわ~っと心に沁みて、

改めて麻生先生との出会いに恵まれたことを幸福に感じたのでした。


結論

こんなふうに、
本人の意思決定を支援することは大事だが本人には難しいことが多い重症児者では、
家族による意思決定の代行で決定されているものと推測されるが、
家族が本人の最善の利益を代弁しているのか、疑問となるケースもあり、
三者成年後見人には医療同意の権限がない現状では、

必須条件として以下の2点であろう、とされる。

1) 主治医が単独で悩み、決定するのではなく、複数の人間が議論し結論を出す。
2) 決定にいたる経緯を文章に残し、必要があれば、関係者、関係機関に報告して公開性を確保する。


そして、この後に書かれていることは、私にはとても重大な指摘と思われます。

 しかし、実際には重症児者の生活の質、取り巻く環境、周りの人々の思いを考慮に入れ、きちんとした理由(good reasons)に基づいて適切な医療倫理的判断を下すことのできる専門家は少ない。


その上で麻生先生の結論は、
ドイツも世話人法を参考に解決策を模索しては、というもの。

2014年のシンポの打ち合わせの席で私が繰り返し先生方に訴えたのも、
適切な医療倫理判断を下せる医療職が少ない現状をまずなんとかしてほしい、
それなくして医療現場の問題解決のために「意思決定」の手続き論だけを進められても、
それは医師の意識がバラついている現場では思考停止を招くだけになるのでは、
ということだったので、

結局、あの打ち合わせで双方の間にあった「溝」の確認というところに
話は戻っていくのですが、

あの場での麻生先生との出会いから、
私はシンポでの発表に向けて自分の考えを一段階深く掘り下げることができたし、

 その後の名古屋での先生と師長さんとの対話や、
またこのたびの先生の論文に感じることを通じて、私自身も
「どうせ医師は素人の言うことに聞く耳なんか持ってくれない」という思い込みを緩め、
いやいや、ちゃんと受け止めてくださる医師もある、と
「対話」への希望をまた取り戻すことができる。

「日本型POLST」の問題で麻生先生が言われたように、
相手の言うとおりにできるかどうかという問題じゃない。

相手の言うことを理解できるか、賛同できるか、ということですらない。

できるかどうか、受け入れられるかどうかとは別に、
まず相手の言うことに耳を傾けてみること、
自分とはまったく別のものを体験してきた相手と「出会って」みようとすること。

「出会い」と「対話」への希望を持ち続けること。

まさに「単に否定するのではなく、対話の糸が切れないようにする継続的な努力」を
双方が続けていくことなのだと思う。