藤原里佐『重度障害児家族の生活 -ケアする母親とジェンダー』 4

前のエントリーからの続きです)


第5章は「家族の生活に表れるリスク―『問題のない家族』を演じることの矛盾」

ここで著者が考察しているのは、
家族はなぜ自分の負担感や葛藤を抑制せざるを得ないのか、という問い。

障害児のケアが全面的に母親に集中することは家族の生活をも様々に規定しているはずだが、
それを家族の負担や不利益と仮定するだけでも
障害児の存在をその原因としていると差別的な文脈で受け止められてしまいがちだ。

そのために家族は、ケアの実情を表に出さず「問題のない家族」を演じてきたのではないか、
というのが著者の仮説。

 母親はこれまで、育児・介護に伴う疲労感や不満を内面化し、自分自身のための自由な時間や、ケア役割からの開放を要求することを差し控えてきた。子どもではなく、母親自身のための自己主張は、時として母親仲間からも敬遠されるような、違和感を放つことになるからである。
(p. 186)


この下りを読んだ時に、頭によみがえってきた場面がある。

30年近く前、
異常な号泣でまったく寝かせてもらえないまま病院で暮らしながら仕事に通っていた頃に、
私自身が疲れから高熱を出し、その気の弱りから、つい
もう泣き声をきいただけで頭がおかしくなりそうなんだと辛さを口にしたことがあった。

「オマエは、それを海のせいだというのか!」と、
父(海にとっては祖父)から怒声が飛んできた。

私は今でも、この時のことを思いだすと息が苦しくなる。

こうやって、母親たちは自分の苦しさを訴える声を封じられれてきたのだ、

世間も専門家も障害者運動も、私の父と同じ論法で、
私たち母親の口を封じ、悲鳴を上げる声を奪ってきたのだ。


終章は「障害児家族のノーマライゼーション

調査から浮き彫りになったのは、以下のような母親の姿。

重度障害児の在宅生活は、福祉制度や地域サービスの貧困さを補うだけの支え手=家族のマンパワーが必要となり、とりわけ母親が子どもの暮らしを支える役割を強固に担うことで、障害児の生活が保障されるという仕組みがつくられてきた。一生という単位で障害児のケアをすることになる母親自身の不安や不利益は、日常的には見えない状態であり、母親は一人長期的にそれに対峙することになる。
(p.197)


しかし、調査からは、
固定的な母親役割に従属しない生き方を模索する母親の姿も見えてきている。

母親たちの意識が変化してきているのだ。

私も最近あちこちを出歩くと、
障害のある子どもがいても働くのが当たり前という意識の広がりがあると
耳にすることが多いし、実際に働いている人と出会いもする。

ああ、時代は変わってきたのだなぁ、良いことだなぁ、と嬉しいと同時に、

もしかしたら一方に、社会全体に広がる貧困の問題や、
障害のある子どもの親にもシングル・マザーが増えてきている問題もあるのかも、と危惧してもいる。

著者は、ノーマライゼーションの具現化においては、
障害当事者の権利のみならず、家族のQOLと人権の保障という視点が必要だと主張し、

「家族支援」という言葉と理念の危うさを鋭く指摘している。

その内容は、私自身が日本の「介護者支援」に感じる
「本来、介護者が介護しながらも自分の人生を継続性を失わずに生きられるための、
介護者の権利擁護としての支援であるはずなのに、
日本では、介護者として機能させ続けるための支援でしかない」という、
危うさとぴったり重なる。

母親が在宅介護の担い手であることを前提にした支援では、問題の解決にならない。
(p. 193)


母親にどのようなニーズがあり、現実の生活では何が選択でき、何が奪われてきたのかという問いを掘り下げることをしなければ、家族という集合体の中に、再び母親の人権が埋もれてしまうことになる。
(p. 194)


私はこれを、
医療的ケアを必要とする子どもたちの地域移行の推進でも、
相模原の事件以降の「地域移行」「脱施設」の大合唱でも
大いに懸念しているところなので、

以下の著者の指摘に全面的に共感する。

……日本における脱施設化の歩みは、逆説的には、家族依存を黙認してきた経過でもあったのではないだろうか。…(中略)… しかし、重度の知的障害者や重症心身障害児者の脱施設化は、家族ケアを前提にした在宅生活を意味するのであり、障害者運動の中で主張された脱施設化と脱家族化の実現は、重度障害児にとっては二律背反となる。重度障害児と家族が今現在どのような在宅生活を送っているのかという実態から目をそらさず、入所施設の否定がある面においては家族依存を招いているという事実を視野に入れた上で施設の存在を議論すべきであろう。
(p. 191)


障害をもつ子どもが家族と共に地域で暮らし、社会参加を果たすことで、「自立」度を高めることが可能であるが、それに反比例して、母親の自由度や自己実現は制限されたものになる。家族を支援するという理念の中に、母親個人の人権を守るということが徹底されない限り、母親の「自立」を描くことはできない。それだけに、母親自身が当事者でもあるという観点から、母親への援助を充実させていくと共に、母親が当事者と化してしまうことの問題性をより深く追求することが問われるのではないだろうか。
(p. 198-199)


母親が「母子共棲」から心身ともに解放され、家族のノーマライゼーションを確立するためには何が必要なのか、子育て、介護、障害者福祉等の知見に拠りつつ、新たなフレームワークを構築していくことを今後の課題としたい。
(p. 200)