藤原里佐『重度障害児家族の生活 -ケアする母親とジェンダー』 1


著者は保育士、養護学校教員を経て、北星学園大学短期大学部助教授(刊行時)。


初読はいつだったのか、記憶が曖昧なのだけど、
2010年ごろじゃなかったかと思う。

3500円もするような本を、基本、私は買わない。
だいたい2000円以上の本は図書館にリクエストして読むか、
私はただの素人だから、よほどのことがない限り、あっさり諦める。
(ここ数年、隔月で書評を書くことになって事情はちょっと変わったけど)

この本は、存在を知って、すぐに躊躇なく買ったのを記憶している。

それは、一般的な「障害児」の母親ではなく
「重度障害児」の母親についての研究がある、ということが、何よりも嬉しかったから。

当時まだ今ほどくっきりした問題意識はなかったように思うのだけど、
それでも重度重複障害児者は世の中の障害者をめぐる議論から置き去りにされている、
という思いは少しずつ切迫してきていたのだろうと思う。

Amazonのレビューで重症児者の母親と思われる方が書いておられるように
まさに「タイトルを見たとたん、読まずにはいられない、と思いました」。

そして、読み始めてすぐに感じたのは、
これもまたその方のレビューと同じく、
「自分の生活がそのまま、自分が抱えている思いが、代弁されているような本」という思い。

読み進むにつれ、
『海のいる風景 親と子の座標』(三輪書店 2002 その後生活書院から新刊)に書いた
私自身の母親としての思いが、そのまま実証的な調査研究で代弁されている! と感激し、
感謝が胸に満ちた。

重症児者の母親が否応なく置かれている状況について、
「障害児の育児・介護を担っている女性の問題として」という視点で、つまり
重症児者の母親になってしまった女性の「人権」という視点で研究してくれている人が
この日本にちゃんといる! ということへの感謝。

読み終えて、「この気持ちを著者にお便りしたいっ」と思い、
「この人に『海のいる風景』を読んでもらいたいっ」とも切望して、
1週間くらいマジで迷ったけど、結局は書かなかった。

著者は私なんぞご存じないわけだし、
売れてもいない、つまり一般読者にも相手にしてもらえていない自分の本を
研究者の方に対して一方的に送りつけるというのは、とてつもなく厚かまし
みっともないカン違い行為のように思えたからだったような気がする。

ところが、人の縁というのは本当に不思議だなぁ、と思うのだけれど、
その後、藤原先生とお目にかかって、ゆっくりお話しする機会をいただいた。

ご著書にいただいたサインを見ると、
2015年3月のこと。


お2人とも、拙著『海のいる風景』を読んでくださっていた。
「学者による聞き取り」というよりも、女3人がめっちゃ共感し、
大いに盛り上がって話が尽きない、楽しい一夜だった、というのが私の勝手な記憶。

その時、お目にかかる前に再読したので、今回が3回目。

今回また格別に心に沁みたのは、
あの相模原市津久井やまゆり園での障害者殺傷事件の後だからだろうと思う。

そこで障害者運動から噴出している「施設否定」「地域移行」一辺倒の議論からは、

一方で急速に進められている
医療的ケアを必要とする子どもたちを含む重症児者の「地域移行」の実態も、
重症児者と知的障害者の高齢化、重度化に伴って、その「地域」で
母親が担わざるをえなくなっている介護負担の大きさも
またも議論から置き去りにされたままだ。

あの事件の後、誰かの「まるで時計の針が戻されたようだ」という感想に対して、
「ずっと施設で暮らしてきた人たちにとっては時計が進んだことなどなかった」と
反論した人もあったようだけれど、

重症児者の母親の側から言わせてもらうなら、
私たち母親にとっても、時計の針が進んだことなどありはしなかった。

今でも「地域で暮らしている」人の中で最も多いのは
グループホームで暮らしている人」でも「自立生活をしている人」でもなくて、
「地域で親元で暮らしている人」のはずだ。

特に重症児者の場合は、
「地域で親(主として母親)を主たる介護者として暮らしている」人が圧倒的に多いはずだ。

そこでは多くの親は自身も高齢化し、いわゆる「老―障介護」となってきているのだけれど、
「地域移行」をしきりに唱える人は、なぜか、その問題には目を向けようとはしない。

そこに取り残されている問題があることにすら、気づかない。

ジェンダーの問題は、それほどに根深い。


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