「そこで何が語られているか」ではなくて、「そこで語られていないことは何か」が問題

アシュリー事件との出会いからの来し方を振り返って、
その間に学んだ、とても大切なことの一つだと思うのは、

大事なのは
「そこで何が語られているか」ではなくて
「そこで語られていないことは何か」の方だということ。

「そこで語られていること」に目を奪われて、それについていってしまうと、
「見えないままにされてしまうこと」がある、と思う。

アシュリー事件そのものが
言葉巧みに語られていることにみんなが目を奪われて、
能弁な父親やDiekemaらの正当化論に引きずられてしまったために、
そこで語られていないことにはまったく目が向かず、
議論の範囲を正当化論によって都合よく限定されてしまった、という事件だったし、

前のブログでも
2008年にこんなことを書いているんだけれど ↓
「ない」研究は「ない」ことが見えないだけ、という科学のカラクリ(2008/11/7)

だから、たぶん、とても大事なのは、
「そこで語られていること」に目を奪われて、それに引きずられていくのではなく、
「そこで語られていないことは何か」に自分でしっかり目を向けなければ、
コトの本質を見誤ってしまうと心得ておくこと、なんじゃないのかな。

これって、例えば日本の原発事故や生活保護法の改正や尊厳死をめぐる議論でだって、
そのまま当てはまることだという気がしてならない。

私の新著『死の自己決定権のゆくえ』の内容に関しても、

本当は一番ショッキングなのは、たぶん、
世界の「死の自己決定権」議論や「無益な治療」論やその周辺で起こっている
唖然とするような出来事の一つ一つじゃない。

それらの情報が
私のような学者でも研究者でもない、ただの素人が
アシュリー事件を追いかけるついでに気に留めてみただけで、
こんなに簡単に手の届くところに(ずっと)あったのに、

それらが私たちには(ずっと)知らされてこなかった、という事実の方――。