企業パワーによる民主政治崩壊 & 大学での人文系学部の衰退

民主的選択の崩壊の理由はこれである。政治への我々の幻滅の根本もこれである。口にすることもはばかられる強大な力(spitzibara注:『ハリー・ポッター』のヴォルデモートのように)とはこのことである。すなわち企業の権力のことだ。メディアはその名をささやくことすら滅多にしようとはしない。議会の審議に出てくることも不自然なほど絶対にない。しかし、我々が企業の権力をきっちりと名指しし、それと正対しない限り、政治は時間の無駄である。


グローバル化したネオリベ経済の「救いのなさ」については
前のブログでいくつものエントリーを書いてきたけれど、
まさに、こういうことだなぁ、と、これまで頭に描いてきた通りが
簡潔に書かれた一説で始まるガーディアンの記事。

読みながら、やっぱり頭に浮かぶのは、日本を含めた各国で目覚しい、
製薬会社の利益に応じて施策が組まれて繰り出されてくるかのごとき政治の動き。

……と思ったら、なんと英国では
メキシコのドラッグ男爵たちのマネーロンダリングに一役買ってきたHSBC銀行の
前頭取だったGreen卿が、今や貿易大臣なんだそうな。

かつてはロビー活動によって政治を動かそうとしてきた企業パワーが
今ではもっとダイレクトに政治に入り込んで、
もはやロビーイストと政治家の区別もつかない。
上はその1例。

一方メディアはといえば、
ルパート・マードックまたはRothermere卿の所有でないところまでが、
まるで彼らの支配下にあるかのように振舞って企業パワーについては触れることもない。

2007年にはBBCの6時のニュースで
企業の代表が出てくるのは全放送時間の7%だったのに、
今では11%にも及ぶ。

それに対して、
2007年には全放送時間の1.4%に登場していた労働組合の関係者は
今では0.6%にしか登場しない。

ブレアに続いてブラウン政権までが
企業とその経営者に反対する勢力を駆逐してしまい、

ブレア以降、議会はまるで米国の下院のような機能を果たしている。すなわち左手の指人形と右手の指人形が議論をしていて、どちらも我々の政治のほとんどを牛耳っている企業資本のほうに顔を向けることはしないのだ。


ガーディアン記者のGeorge Monbiotは
この事態が変らない限り、政治に何も期待しなくなった国民の姿勢も変らない、と。

It’s business that really rules us now
The Guardian, November 11, 2013


この事態と密接に繋がっていると私は感じる、
そしてさらに深刻だと私は感じる話がNYTに。

米国の大学の人文系の学部に学生が集まらなくなって
資金不足もあいまって、学部閉鎖に追い込まれる大学が続出している。

社会の側の科学志向とそれに伴って科学とテクノロジーへの資金の集中。

加えて、大学を学問し自分の視野を広げる場所と捉えるよりも
単に就職の準備とみなす親の姿勢の変化。

またロボットコンテストなど、勝ち負けが見えやすい科学系の学部に比べて
人文系の学部では学生は優秀さを認められにくいことも。

苦肉の策として、
文学作品や最高裁の判決文を分断し、
コンピューターで分析させる「英語&歴史&コンピューター専攻」なんかも登場。

ある英文学教授が言っている
「我々の仕事とは、学生に疑問を持tつことを教えること」というのに
私も賛同するし、

記事の最後にBard大学学長が言っているように
「人文系の学問によって、価値意識や問題間の相克や哲学的な根本問題を考えるための
足がかりとなるスキルを身につけることができる」んだとも思うんだけれど、

この学長さんは
「哲学教授だけでなく、エンジニアや科学者やビジネスマンにとっても
それらのスキルは不可欠なんだということを我々は伝え損なってしまった」と言っている。



……というか、すでに哲学者の間にまで
数字や論理によってしか人間のことやいのちについて考えることができない、
頭がいいだけの浅薄思考の人たちがわんさと出てきているし、

そういう人たちは
上のガーディアンの記事が指摘している世界のありようを体現するかのように
軒並み、“科学とテクノの簡単解決バンザイ”文化とその利権の代弁者をやっている。

また世の中が、
そういう論理のパズルみたいな数学的な浅薄思考を誉めそやしつつ、
企業パワーの利権の方向にやすやすと誘導されていく、ときて、

今こそ必要なのは
人文系の学問の本当の意味での復活だと思うのだけれど、なぁ。

でないと、人間の文明は“コントロール幻想”の傲慢によって
むしろ滅びに向かうんじゃないかって、
なんか、そんな気がする。