ドキュメンタリー映画『犬と猫と人間と2 動物たちの大震災』



Amazonの内容紹介から

ふたたび、いのちをめぐる旅が始まる。

2009年に公開されて大きな話題となった『犬と猫と人間と』のパート2として、東日本大震災の被災地で600日にわたり、人と動物の姿を見つめました。

DVDには、作品の背景を伝えるリーフレットとともに、映画のその後を取材した『1年後の「犬と猫と牛と人間と」』など、特典映像(計65分)を収録。

もう一度観たい、その後を知りたい、そんな思いに応えます。

副音声:音声ガイドつき(視覚障害者向け)
英語字幕/日本語字幕(聴覚障害者向け)



瓦礫ばかりの風景が続く冒頭から、
折々に挿入される被災地の風景によって時間経過が示されつつ、

いま映された凄まじい陵辱と荒廃の風景の中で、
それでも泥まみれになってちゃんと生活の時間を生きている
それぞれの人の姿が描かれていく。

泥だらけになったお店を片付けながら、
津波を生き延びた野良猫と出会い、いつのまにか世話をするようになる男性。

あの日、行方不明になったペットを必死に探し続ける夫婦。

あの日、避難所まで連れて行ったのに、
ペットは入れないと言われて外につないだために死なせてしまった、と
犬のコロスケを今なお深く悼む夫婦。

津波原発事故で飼い主からはぐれた犬や猫を保護するシェルターの活動。

警戒区域に通っては取り残された動物たちの救援を続けるボランティアたち。

その一人、岡田久子さんの活動にカメラは密着する。

そして、人々の生活が少しずつ落ち着きを取り戻していくのに対比されるように
そこで描かれる動物たちの運命は少しずつ過酷さを増していく。

風景と、そこに流れる時間と、そこで暮らす人々と犬や猫のつながりや、
誰もいなくなった町を飢えてうろつきまわる痩せこけた動物たちと、
彼らに餌と水を与えるために警戒区域に通うボランティアの活動。

それらが絶妙な配置で描かれていく中、
やがて岡田さんが訪れた無人の町の無人の民家の庭先に
鎖につながれたまま餓死した犬が死骸となって転がっている。

それと分かった瞬間、
そのシーンはそれなりにショッキングではあるのだけれど、

でも、それが
岡田さんに発見された犬の姿であること、

岡田さんが、その犬の死骸の背を撫でながら泣いている姿が
すぐに後を追うことが、見るものに救いとなって、

また岡田さんが「どんな思いで死んでいったのか」とつぶやく、
一匹の固有の犬の内面にまなざしを向ける言葉でくるまれるために、

そのシーンは決して不快なものでも恐ろしいものでもなく、ただ無残な、
ありのままの現実を描き出した。

無人の町には、そんな動物たちの死骸があっちにもこっちにも転がっている。

そして、津波で死んだ無数のコロスケたちがいる。

人間の都合で逃げるに逃げられない状況に追い込まれて、
そのまま苦しみながら死んでいった力弱い動物たち。

私はそこで、
もしかしたら意識があるまま人知れず生体解剖にされたかもしれない
あのザック・ダンラップと同じだったかもしれない”脳死ドナー”のことを
頭に思い浮かべていた。

そして、後半でクローズアップされていくのは、
警戒区域の牧場に残されて飢えていく牛たちの問題。

犬や猫に餌を配って歩いていた岡田さんはやがて、
牧場に残された牛たちを守るための活動に関わるようになる。

解説リーフレットによると、試写会で
牛の部分は不要だという意見もあったということだけれど、
私は全然そうではないと思う。

被爆して経済価値を失った牛の処遇問題こそが
コトの本質に迫っている。

「どうせ死ぬはずだったのだから、
見殺しにしたっていい」のか――?

「殺処分」、「安楽死」という言葉と「経済」という言葉が繰り返される。

被爆した牛たちを飼育する牧場を経営する吉沢さんと、
何も分からないまま、ただ目の前のいのちを見捨てて置けないという思いから
自分もまた牧場経営に乗り出した岡田さんへのインタビューが
私にはクライマックスだった。

ここで起こっていること、
それに抗おうとする人が直面させられるジレンマ、
マジョリティの感じ方、捉え方、すべてが、
今この世界で起こっていることの縮図だということが、
丁寧に描きこまれている牛たちの処遇問題で
見事に浮き彫りになっている。

その前後に出てくる
つながれたまま腐乱し白骨化している牛や
死骸にウジがたかっている映像が、
誰がやったのか、と無言の問いを突きつけてくる。

こういうことを目の当たりにすることもなく、
見ないし見ようともしないところから「どうせ」と決め付け、
「だから殺してしまえばいい」と言い放つ人たちに、
この現実を見よ、と、この映画は言っている。

それでも、それらの残酷な現実が、
「ここにあるいのちと出会ってしまったから」という言葉や、
動物たちを世話する人たちの思いや愛情あふれる手つきや言葉の温かさに
救われつつ提示されていることで、見ていて重苦しくはならない。
彼らのために行動せずにいられない人が沢山登場するからだろう。

そして、ナレーションが淡々と優しい。
この映画のトーンを決めているのは、
監督自身の声と語りのような気がする。

最後のあたりで、
震災で飼い主とはぐれて野山を長い間うろつきまわり、
やっと保護された犬のゆうが飼い主と再会を果たす場面がある。

痩せこけて衰弱し、暗く怯えた目になって、じっと小屋にうずくまっているゆうが、
飼い主を見ると、尻尾を振りながらよろよろと小屋から出てくる。
やっと懐かしい飼い主に出会えて、撫で回されながら、喜んでいる。

ちゃんと覚えている。
ちゃんと再会をこんなに喜んで、はしゃいでいる。

身も心もあんなにボロボロだったのに。
全身にあんなにも警戒と人間不信を滲ませていたのに。

じ~んと心に沁みて、思わず、
誰だ、「犬や猫ほどの知能」なんてホザくヤツは?
……という言葉が、口をついて出た。

犬と猫と人間と。

つながっている。
同じ思い。同じいのち。

だから――。