ロングインタビュー「薬害HIV被害者の当事者性とは何か? 花井十伍に聞く」

『支援4』(生活書院 2014)の中にあるロングインタビュー
「薬害HIV被害者の当事者性とは何か? 花井十伍に聞く」
聞き手・井口高志・中塚朋子


花井十伍氏は、
血友病治療のための輸入血液製剤HIVに感染した薬害エイズ被害者。
1997年から大阪HIV薬害訴訟原告団代表。
2000年に「ネットワーク医療と人権」を設立、同年から理事。
全国薬害被害者団体連絡協議会代表。
中央社会保険医療協議会委員をはじめ、
薬事行政関連の各種委員会や審査会委員を務めてきた。

つい先週にも
『偽りの薬 バルサルタン臨床試験疑惑を追う』毎日新聞社)を読んでいたら、
京都府医大での臨床試験でデータ操作が発覚したことを受けて
厚生労働省が設置した大臣直轄の有識者検討委員会の委員の中にも
花井氏の名前があった。

(ちなみに当ブログで見知ったお名前としては、もう一人、昭和大講師の田代志門氏も)


インタビューの前半で面白いのは、
HIV訴訟原告団の運動が政治力を持つためには、必然的に
「被害者」として「ある種の役割を付与されて、被害者はこうであるということを演じる」、
つまり「看板」であることを求められることや、
その「演じる仮面」と「実存的な身体」の間で生じる軋轢が語られるところ。

それから、
一人ひとりは弱くて痛みを抱えた病者でしかなく、
本当は「当事者のプレミアム性」などありはしないのに、
当事者が「被害者」を演じることの恥ずかしさを忘れて
単に政治的な方便として利用しているはずの「被害者としての当事者のプレミアム性」を
自ら引き受け、勘違いしていくことへの違和感。

そのすぐそばには、
当時、運動を支援し担った学生にとって「薬害エイズは青春そのものだ」けれど、
血友病の僕らの青春じゃなかった…被害者の青春はどこまでいっても
薬害によって奪われたまま」という、透徹したまなざしがある。

そのギャップを「言ってもせん無きこと」と分かりつつ
そこに「痛さ」を感じる、と語る。

これ、すごく分かる……と思った。

この痛み、
『アシュリー事件』を書いてから知り合ったり、接点ができたりした、
様々な運動の活動家や支援者や研究者といった方々との間で
私自身も頻繁に感じてきた。

当事者のための支援や運動だったはずなのに、
どこかで、いつのまにか、運動のための当事者になっていたり、
同じ価値観を共有してきた一つの運動の内部で、
当事者の言動が運動の正当性を担保するアリバイのように扱われたり、
研究業績を作る為に必要な当事者になってしまったり、

まだまだ「言ってもせん無きこと」と割り切れるほどの経験もなければ、
人格が成熟してもいない私には、そういうことが、いちいち痛くてならなくて、
その痛みを感じるたびに、その世界との接点から逃げ出したくなってしまう。

だけど、やっぱり、痛くて逃げ出したくなるようなところにいるからこそ、
むしろ、そこに留まって、その痛みの周辺にあるモヤモヤを抱え続け、
そのモヤモヤと向かい合う中からしか言えないことを言い続ける覚悟を決めることが、
もしかしたら「当事者性」を引き受けるということなのかもしれないなぁ……と
このインタビューを読み進めていくうちに、考えさせられた。

たぶん、そういう当事者の立ち位置こそが、
語られるべきややこしいもの、語られ難いややこしいものが
たくさん潜んでいる場所のはずだから……とも、見えてくる。

そういうことを考えさせるのは、花井さんが、
白黒やステレオタイプといった安直な思考に逃げ込まないで、
ややこしいことに、それをややこしいことにしたままに向かい合おうとしている姿勢と、
その姿勢のままに率直に語ろうとする、その語りのすごさなのだと思う。

それは「医師も製薬会社も人殺しだった」といった簡単な勧善懲悪の構図には乗らずに、
医師や社会学者を巻き込んで、薬害エイズに関わった人それぞれにとっては
本当は何が起こっていたのかを解明しようと、大規模な聞き取り調査を行ったことにも
顕れているし、その周辺の語りもたいへん面白いのだけれど、

ここでは「当事者性」にこだわり続けると、

私自身が『アシュリー事件』以降、
いろんな領域の活動家や専門家や研究者と出会い、接する中で、
自分がどこへ行っても、その「領域」では「遅れてきた人」に過ぎないことを思い知らされ、
どの領域からも「あなたは十分に分かっていない」と否定されるという体験を
重ねながら感じている悶々に対して、

見事な回答をもらった感じがする箇所があった。

これは、まさにこのインタビューの肝のところだと思うんだけど、

一つに、当事者とは何だという問いにいまだ答えがない。一つの考え方は、各専門領域に立ってる人は、その専門性がゆえに専門領域に足場をもたざるをえないけれど、素人はすべての専門領域を使う権利を持っていて、領域を乗り越えることができる。もう一つ、これは個人的なこととかかわるけれど、痛みや現象そのものとしてこの世界に立つということ。所与の生命現象としてここにあるということから、すべてをスタートさせるというのが、当事者たるということなのかなと。
(p. 253)


前半は、まさに上記の悶々への
胸がすくような「解」をもらえた下りなんだけれど、

加えて、後半に書かれていることを我田引水すれば、これ、

『支援3』で書かせてもらった、
「母親が『私』を語る言葉を取り戻すということ」の中で、私が書いてみた、
「これまでこうして生きてきて今ここにこうして生きている一人の人としての私」(p.85)
なんじゃないのかなぁ。

専門領域を持たない代わりに、
そういう「私」であることに立ち切る、そして、そこに立ち続ける、ということ。

(ここ数年やっと、
誰かに「素人のくせに」「知識(理解)が足りないくせに」と否定された時に、
おなかの中で「これこれこうして生きてきた『私』丸ごとでモノを言って悪いか?」と嘯き、
自分の「当事者性」に開き直ることができるようになってきた。

だからといって
「権威」や「正しさ」の高みに立つ相手から否定される不快や傷つきを
簡単に乗り越えられるようになったかというと、それはまた別問題なのだけれど)

そういう「私」の「痛み」をめぐる花井さんの語りが、とても深い。

……僕らの思う痛みとか喪失、悲しみというものが、自分であるということと同義なんだろうと思うわけです。だから私とは何かと言われれば、それは痛みなんです。
(p.254)


……血友病のその痛みそのものが、スティグマとしてもしくは祝福として両義性を持ちながら自分と一体化している感じ。これが僕の言う痛みというものに対する一体感です。
 外から来た痛みかもしれないけれど、それとは少し違うもの。誰かに痛めつけられたものかもしれない。でも、その身体から悲鳴を上げるというか、身体に語らせる感じがやはり基本になくてはいけない。
(p.255)


花井さんはこの前に
「医師が観察する患者と生きる患者は違ってい」るんだけど、
多くの医師はそのことの自覚的にはなれない、という問題を指摘していて、

だからこそ、こういう身体性を伴った患者の声が必要だと
いうこともそこにはあるんだけど、

それだけじゃなくて、というか、花井さんの語りは
それよりもさらにもっと深いところに到達していて、


 自分が「いたみ」でできているというときの「いたみ」は、痛みと同時に、変形する傷みと一緒。傷んできたねコップがって言うでしょ。そのイメージ。何かを経験して記憶に留めるということが、ピュッと傷んでいく。そうやって心が動いて自分の記憶になっていく。「いたみ」に二重の意味がある。単純に本当に痛いということではなくて、やはり記憶なんだよね。
(p.257)


だから、ある意味で、患者本人よりも遺族の方が痛いんじゃないかと花井さんは言う。

……遺族は自分の一部を欠落している。誰かを失ってそのことを嘆いているのではなく、自分の体の一部をごっそり切り取られてその傷が痛いといっているんじゃないか。ごそっと切って持っていかれて、未だ血が流れている。
(p.257)


そういう「いたみ」と向かい合いながら、
それらを、単に頭の中だけでこねくり回した理屈ではなく、
自分自身の実在を通した身体性のある声で語っていくために、言葉を捜し続けること。

それは「永遠に語っていく」ことにもなるし、
そこには割り切れないものが沢山あるんだけれど、

……その割り切らないところが、当事者性ということの稀有なところではないかと思います。生きているってことそのものを、突きつけることができる。
(p.268)


お~~しっ。

生きているってことそのものを、突きつけることができる……。

ここを何度も反芻しながら、
胸のうちで、何度も、思いっきりグーをした。

むっちゃ元気をもらったロングインタビュー記事でした。



          ――――――――――――――

当事者性ということとは別途、2点ばかり、
当ブログの主張してきたこととぴったり重なって、
「おー!」と、思わず血沸き肉踊った点をメモ的に。

① 国に治療費を支援してもらっていることに対して、
今の世の中の空気を前に、とても複雑な思いになり、
(重症障害児者と同じく)「真っ先に切り捨てられ」る切迫した危機感を感じつつも、

これは人権の問題なんだと、花井さんは言い切る。

……命は命だという話ですよ。命は命だというのがいわゆる基本的人権であって、生存がまずあって、そして幸福の追求があり自由がある。……生産なんてしなくていい。生きているだけでいいんだということですよね。生産した方が偉いというのは既にナンセンスなんだけど、ただ経済的にどうこうという話は、また別の文脈です。
(p.261)


……若い人に聞いても、人権という言葉自体に手垢がついていると言う。人権なんか言う人は変な人、プロ市民って言われる。でも、他にどんな言葉があるんだということですよ。

……中略……

……やはり人権問題として捉えていかないといけない。そうしないと、何をやっているのかわからなくなってしまう。
(p.262)


② ビッグファーマをめぐって、当ブログが
「科学とテクノで簡単解決バンザイ文化とその利権構造」と呼んできたもの、
例えば、以下のエントリーで書いたような今のグローバル経済のあり方をについて、



 まさに当ブログで指摘し続けてきた
「科学的である」ということが権威やドグマとして機能することのマヤカシを
ズバリと突いた発言がある。

何から何までサイエンティフィックであることが正当性を主張していながら実はそれは科学的ではなくこちらのほうがよほどサイエンティフィックだと思ってしまうわけです。……全部がマヤカシに見えてくる。

……中略(科学論文の出版バイアスなどについて触れて)……

……だから、HPVワクチンなんかが、三○○億も使って定期接種になっていくわけです。……そう言って科学的だと合唱している人たちは、大きな利益集団の中にいてそれを飯の種にして、流れ込んできた莫大なお金でマイホームを建てている。その中で、貧しい市民活動をしている人間だけが反論するって、なにか悲しくないですか?
(p.265)


これを読んだ後で、検索して
去年5月29日に参議院議員会館で開かれた
子宮頸がん問題 院内集会のYouTubeビデオを観てみたら、


おおっ。


【25日追記】
ついでに、上記院内集会のビデオをいくつか以下に。

「1から10まで数えられない」ほどの記憶障害、知的障害に苦しむ少女たち~子宮頸がんワクチン被害者の声
https://www.youtube.com/watch?v=NJkJW5qbdyM

山田真美子 神奈川県支部代表
https://www.youtube.com/watch?v=GnOOAKhh0iI


隈元邦彦 薬害オンブズパーソン会議 江戸川大学教授
https://www.youtube.com/watch?v=rhLX1yW8YM4