「患者の知」はなぜ尊重されにくいのか……を、アトピー治療をめぐって考察する牛山論文

アトピー性皮膚炎治療における「脱ステロイド」をめぐって
なぜ「患者の知」は医師から尊重されにくいのか、
本当の意味での「患者中心の医療」が実現するためには何が必要なのか、
両者の間にある溝を考察した、とても興味深い論文に遭遇したので、

現在、重心医療における意思決定を巡って、親と医師との間にある溝と、
それを乗り越えるために医療にどうあってほしいか、について
考えているspitzibaraとしては、とりあえず、メモとして。



最初に取りまとめられている「問題の所在」とは、

「患者中心の医療」を実現しようとした時に、1番問題となるのが、患者の治療に対する希望と医師の治療との間に食い違いが生じる場合である。患者の希望を優先すべきか、医師の持つ専門的な知識に基づいた治療がなされるべきか、この点で「患者中心の医療」というコンセプトはいまだ葛藤の中にある。そして、ステロイドフォビアの問題は、まさにこの葛藤を中心に抱え込んだ事例といえる。ステロイドを使いたくないという患者の意見が尊重されるべきなのか、あるいは、ステロイドは怖がらずにきちんと使うべきだという医師の指導が優先されるべきなのか。
(p.3)


私にとって特に面白かったのは、
1-2 「医師―患者関係の変容」
1-3 「患者の知」に関する先行研究

それから第5部:総合考察の
17-2 科学的エビデンスと患者の知


1-2と1-3では、
エリオット・フリードソンの議論などから、
「医師が専門家集団として医療を独占することにより、いかに権威的な立場を築き上げたか」(p.12)
を説明しつつ、

現在では
感染症から慢性病への疾病構造の変化。
② 情報技術の発達により患者でも専門知識を入手できるようになった。
③ 補完代替医療の隆興により患者が消費者となる市場が拡大した。
などの理由により、医師の権威に基いたパターナリズム・モデルが崩れ、
「患者の体験」や「患者の知」が重視されるようになってきた、と指摘。

アーサー・クラインマンによる
「疾病(disease)」と患者や家族の体験としての「病い(illness)」の区別
「病いの語り」の研究と生物医療への批判と、それに続く、
トリシャ・グリーンハル、ブライアン・ハーウィッツによる
ナラティブ・ベイスト・メディスン(NVM)概念。

さらに、ミシェル・ド・セルトーによる患者の「戦術」概念、
糖尿病患者の「治療実践を飼い慣らす日常的実践」という浮ヶ谷幸代による捉え方、
アトピー患者のアトピーに対する「肯定的な語り」に注目した余語琢磨など、
医療人類学において、患者の行動や態度を「戦術」として肯定的に捉える動きが紹介される。

余語の指摘する
「肯定的な語り」の物語に共通した、以下の要素が興味深い。

(1)絶えず考え、迷いながらも、自分で選択していくこと、
(2)社会や自らが設定した規則や目標に固執しすぎず、柔軟に対応できること、
(3)日常生活のなかで病いと折り合いをつける諸方法を身につけること、
(4)失ったものとともに得たものがあると思えること、
(5)自らのやり方を理解する同病者や家族・知人、医療者などを得ること


また、著者は、
患者の「戦術」には
患者が弱者であることと
医療体制そのものを変革する意思を持たないという
2つの共通項があると解釈するが、

その一方で、
患者の中に既存の医療体制に異議を唱える人たちが現れて
新たな「患者の知」の捉え方が生じてきている、とも言う。

例えば、欧米で1970年以降に始められた
ストロングプログラム、ラボラトリースタディーズ
科学的知識の社会学(SSK)、科学技術社会論STS)。

それらにより、

科学という、もっとも正統性を獲得した知のあり方さえも、それが揺るがしがたい事実ではなく、作り上げられるものだという認識が広まってきたといえる。そうなると、今まで科学や医療の正統性のもとに治療を行ってきた既存の医療や医師たちに対しても、それが本当に「正しい」医療であるのかという疑問を付すことができるようになる。こうして、患者の経験や知が、医師の持つ専門知に疑問を突き付け、それに対抗するようなものとして描くことが可能となった。
(p.16)


ただし、ヒラリー・アレクセイの研究に見られるように、以下の問題点も。

患者の知というものが、医学的事実を構築する際に力を持ち得るということを示しながら、同時に、患者が専門家のサポートなしには、医学的知を変革することはできないという、二律背反的な事実


ここで、著者はとても興味深い事例を挙げる。

かのMMRワクチンの自閉症リスクをめぐる、ウェイクフィールド論文事件。

Wakefield論文が抹消された前後の報道などについては、こちらのエントリーに ↓
米国で「ワクチン打たないなら診てやらない」と医師ら(2011/7/6)

この事件について、
医療社会学者、松繁卓哉の以下の見解が引用されている。

一連の議論は「何が医学的に正しい情報なのか」という観点に終始しているわけである。言い換えれば「専門家-素人」という二項区分のもと、前者(科学・医学)が「正しい」と規定する情報のみが追究されていったがために、後者(この場合は親たち)においてどのような合理的価値判断が働いたのか、という点に目が向けられる機会が軽視されてしまった。結果として親側の主張は、前者からの視点により「非科学的」「思い込み」「事実誤認」としてのみ性格づけられ、それ以上の解釈がなされなかった。[松繁 2010 : 3]




著者は、これと同じことが
アトピー治療でのステロイド・フォビアでも起こったというのだけれど、

もう一つ、著者はスティーブン・エプステインによる
米国のエイズ治療のアクテイビズム研究を紹介し、それらの3つの研究から

「患者が医学的正統性を勝ち得るためには、
専門家の土俵に立ち科学的なレベルで議論を展開しなければならない」
という共通項を見出す。

そして、

患者や家族にとって、「科学的に正しいかどうか」という要素は必ずしも唯一の判断基準にはなりえないのだが、それにもかかわらず、医学的知の形成においては、科学的妥当性のみが唯一の判断基準としてまかり通っているという事実が存在する。

エプステインの示したエイズアクティビストの例は、患者の知が影響力を勝ち得た成功事例と解釈できるが、本稿では、患者の持つ科学的妥当性以外の要素である、生活上の知や経験といったものを、科学的議論とは異なる次元の知として位置づけ、それらがどのように意味を持ち得るかを考察していくこととしたい。
(p.18 ゴチックはspitzibara)

として、
その後、アトピー性皮膚炎治療におけるステロイド忌避をテーマに
日米での患者の意識や体験の比較調査が詳細に論じられていく。

そこでは、例えば医療従事者視点でのノンコンプライアンス批判を巡る
第4章の考察が面白いのだけれど、

ステロイドをめぐる問題の本質は、患者の無理解に基づくノンコンプライアンス
にある、ということになる。しかし、問題は患者の側にのみあるのだろうか。患者のノン
コンプライアンスという言葉に隠されて見えなくなっている問題もあるのではないだろうか。
(p.35)


アトピー治療に関する調査や考察の詳細部分は、割愛。


17-1の「患者の知と科学的エビデンス」でも、
冒頭部分での議論は改めて簡潔に取りまとめられており、
アトピー性皮膚炎を巡る詳細な検証の後でさらに踏み込んで書かれている箇所が
もうドキドキするほど刺激的。

……第1章で、ヒラリー・アレクセイ、スティーブン・エプステイン、松繁卓哉の研究を引きながら、患者の知が医療的知の形成に影響を及ぼすには、患者が専門家と手を組む、もしくは専門的な知識を身につけるなどして「科学的」なレベルで議論を行う必要があると述べた。さらに、松繁の紹介したMMR論争の例から、素人の意見は「非科学的」だとして専門家に退けられてしまう場合があることを確認した。

実際のところ、1990年代における一連のアトピー性皮膚炎患者団体の活動は、イギリスのMMR論争の事例と非常に似た結末を辿った。筆者の見解ではMMR論争の特徴として以下の2点が挙げられるが、それはアトピー性皮膚炎の事例の場合にも当てはまる。MMR論争の第1の特徴は、論争に関わったすべての人々が「不確実性」の中にあったことにある[松繁 2010 : 11]。つまり、MMR自閉症との因果関係を示すエビデンスがないだけでなく、MMRによって自閉症が起こりうるとした学説を完全に棄却しうるようなエビデンスも明示されなかったため、どちらの陣営もエビデンスを切り札に議論をすることはできなかった。これは、アトピー性皮膚炎の場合も同様で、ステロイド外用薬が長期的に使用して安心だと言う確固たるエビデンスもなければ、ステロイド外用薬を長期的に使用すべきではないというエビデンスもなかった。

また、MMR論争の第2の特徴は、エビデンスがないにも関わらず、素人の側の主張は「非科学的」だとして退けられ、専門家の意見が勝ったということである。保健関係者・医師の認識には「素人判断=危険」という図式があり、「デマを排除する」というスタンスで事態の収拾がなされた[松繁 2010:9]。
(p.193)


このあと、著者は大胆な指摘をする。

「標準治療」という言葉
ステロイド外用薬の安全性を明記したガイドラインが多発する同時期に
使われるようになったとして、

「治療の正統性を表現するために意図的に使われ始めたものと考えられる」
(p.194)


もう一つ、重要な指摘は、
患者が専門家と手を組むか、同レベルで議論できるだけの専門性を身につける以外に
患者の知を尊重されなかったのと同様に、

患者と運動を共にする脱ステロイド医もまた、
科学的なレベルで脱ステロイド治療の正統性を勝ち得ようとしていること。

(ここ、私は、近藤誠氏に対する患者からの支持のあり様と、
医師らによる批判のあり様との間に、そこはかとなく感じる、
「噛みあわなさ」とか「ズレ」のことを考えた)


それに対して著者は、
NPO法人「アトピッ子地球の子ネットワーク」の活動を紹介しつつ、次のように書く。

実際のところ、アーサー・クラインマンも述べるように、患うという経験は、単に「疾患」の問題ではなく、社会や文化や他者との関係も含みこんだ「病い」の問題として捉えられるべきである。アレルギーやアトピー性皮膚炎という病いは、単に症状が出ることだけが問題なのではなく、他の子供たちと一緒にご飯が食べられないために疎外されてしまう、といった人間関係まで含みこむ問題である。同団体が目指しているのは、食や環境、人間関係といった病いを取り巻くさまざまな要素を見直しながら、病いと共生していく方法を身につけるといったものであり、生活知やローカル知に近いものが目指されていると理解できる。

(中略)

……専門家の追究しようとする知と、患者の求める知には差がある。いくら、医学的正統性の議論が、専門家の知によって決定されてしまうとはいえ、患者の視点から生活世界を眺めたときに、専門家の知がどれほど役に立つかは心もとない
(p.198  ゴチックはspitzibara)


(「生活」と「医療」の大きさが医師と患者または家族では逆転している、
つまり医師は「医療の中に生活がある」と考えており、
患者と家族は「生活の中に、そのごく一部として医療がある」と考えている、
という持論をもつspitzibaraとしては、ここ、
「生活世界」という言葉がキーワードだな、と思う。
これについては昨年の重心学会シンポでちょっと発言している(文末のリンク参照))


問題は、EBMとNBMとをいかに統合できるか、その困難にあるとも言える。

再び、上記、松繁からの引用。

「統計的に「有意」として導き出される「エビデンス」は、平均的なサンプルを想定した世界の中での産物に他ならない。現実の患者は、きわめて多種多様な生活世界の住人であり、偏差の世界に生きている。
「医学を基盤とした統計的手法」という現実把握のためのごく一面的なアプローチが、ひとたび「エビデンス」として強大な威力を付与されるがために、医学のみならず社会・文化・心理等の総体として現れるはずの病気を一手に引き受けており、結果として、一般化された「知」が文脈へと還元される道筋は「遮断」される[松繁 2010 : 141]
(p.199)


松繁によると
「患者中心の医療」には2つの流れがあり[松繁 2010:6]

① Evidence-based patient choice: EBPC
患者に対してEBMに基く医学情報を提供し、その上で患者が治療を選択する。

② patient partnership : 患者とのパートナーシップ
診療の場における患者と医師を対等な存在と位置づけ、
治療をめぐる意思決定は、医師と患者両方の意見交換により成立する。


(ここのところ、私は急性期の場合はEBPC、
慢性病や障害、在宅療養など、患者の生活知がおのずと鍛えられていくケースでは
パートナーシップが当たり前だろうと、ずっと思ってきたし、

重い障害のある子どもの親としては、
医療との付き合いの浅い時期に、きちんとEBPCを実践してもらうことによって、
患者や家族も無理なく知識を身につけ、それに体験知を加味することで
時に医師に治療を提案したり、対応に話し合えるだけの素地をもった
一人前のパートナーに育っていくのだという気がしている。
これについても、去年の重心学会でちょっとお話しして、
今もこの線上で考え続けているところ)


で、再び論文に戻ると、
最後に「アトピー性皮膚炎から見えてくる課題」として
著者が挙げている2点が、またウハウハするほど刺激的。


そもそも、エビデンス・ベイスト・メディスンやナラティブ・ベイスト・メディスン、患者中心の医療というコンセプトは、患者が求める治療が、医師に提供できる選択肢の中にあると想定して作られており、患者の求めるものを医師の側が提供できない状態については考えられていないアトピー性皮膚炎の事例から見えてくるのは、患者の意見を尊重するためには、医師の側が今までと異なる治療を提供しなければならないということである。
(p.201 ゴチックはspitzibara)


患者の知が、医療者に意味のある情報として汲み取られる可能性があるか。

そのためには、
患者の自らの知を科学的に武装したデータに飛躍させるか、
医療職が患者のナマの体験を真摯に受け取る姿勢を作るかの、
いずれか、または両方の「変革」が必要。

  
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この論文、とても勉強になり、
読んでみたい本や論文がいっぱいありました。

と、同時に、

それは、
私が重い障害のある子どもの親としての立場で
医療専門職に向けて「こう変わってほしい」という声を上げるにあたって、
武装」しようとしているのだろうか……と、

ちょっと立ち止まって考える機会を、この論文は与えてもくれました。

ものを考えるための糧として
自分が読みたいものを自由に読むことはもちろんとして、

でも、

私は何よりもまず、
自分自身が海の親として「これこれこういうふうに生きてきました、
その中で、これこれこういう体験をし、こう感じ、そこからこう考えて
今、それらから、これこれこういうふうに思うのです」というところに立ち、
そこからものを言いたい、という気がしていて、

「海の母親」としての28年近くの経験と、
その母親がたまたまアシュリー事件との出会いからブログや仕事でやってきたことや
そこから考えてきたこととの間を、あくまでも
私という「生身」を離れることなく行きつ戻りつしながら、

その「行きつ戻りつ」の中で私自身がその体験や思いと誠実に向き合い
そこから自分の「生身」に正直な言葉を探し出して訴え続ければ、
正統性とも科学的な専門性とも無縁であっても、
その言葉は届くべき誰かには届く力を持っていると、
信じたい、と改めて考えました。

それが「当事者の専門性」というものだと
私は堂々と主張していたい、と思うから。