イヴ・ジネスト他『「ユマニチュード」という革命:なぜ、このケアで認知症高齢者と心が通うのか』

イヴ・ジネスト、ロゼット・マレスコッティ著、本田美和子(監修)
『「ユマニチュード」という革命: なぜ、このケアで認知症高齢者と心が通うのか』誠文堂新光社


ユマニチュードについては、
断片的に聞きかじるだけで詳細を知らないまま
なんとなく「ちょっと胡散臭いメソッド……?」という印象を持っていた。

ずっと寝たきりだった高齢者が立って歩いたとか、
ずっとしゃべらなかった人が突然しゃべり始めた、とか言われると、
障害領域につきものの例の「奇跡のメソッド」なのね……と、ひねくれるのが
習い性になって久しいものだから。

で、この前、刊行からずっと気になっていた上野秀樹先生の
『認知症 医療の限界、ケアの可能性』メディカ出版)が
日本医学ジャーナリスト協会賞をとったと聞いて読んでみた時に、

まさに「医学の限界 ケアの可能性」を象徴するメソッドとして
実際にジネストさんが20分間初対面の認知症患者に話しかけたら、
ものも言わず寝たきりだった患者さんたちが歩いたり歌を歌ったり話しはじめた、という
上野先生ご自身の体験と共にユマニチュードがとても前向きに紹介されていた。
(ただし「立つ」ことには留保しつつ)

上野先生の本がちょっと物足りなかったこともあって、
8月に出たばかりの、ご本家のこの本を読んでみようか、と。

読み始めて、しばし。
頭に浮かんだのは、この前読んだガワンデの『死すべき定め』



つまり、医療の権力構造への解体というか修正の試みが、
こんなふうにあちこちの角度から行われている中、ユマニチュードも、
認知症の人や高齢者へのケアという一つの角度からの
やはり医療の世界の権力構造への修正提言なのだ、
なるほど、そういう意味で、まさに「革命」なのだ、と納得できた。

例えば、以下の下りなど。

誰しも専門的な知識や技能を身につけることで、思考停止に陥ってしまうことがあるといいたいのです。
(p. 31)


看護師が患者に話しかけていない、という調査結果について、

……やはり話しかける必要性が認識されていなかったのです。私たちがそのことに気づけたのは、看護のバックグラウンドを持っていなかったからかもしれません。専門家であるがゆえに見えないことがあります。私たちは専門的な知識を持っていないからこそ、かえって自由に考えられたと言えます。
(p. 36)


ちなみに、著者2人は体育学の教師。
看護師の腰痛対策を頼まれたことがきっかけで、
病院や施設に出入りするうちに、医療やケアのあり方に疑問を抱き、
調査や研究を重ねてユマニチュードを編み出した。

例えば、当時、
重い寝たきりの患者さんのトランスファーの指導に入って、
当たり前のことだから正面から「起きてください、車いすに乗りますよ」と声をかけたら
自分から起き上がろうとしてくれた、というエピソード。

この人がそれまで起き上がろうとしなかったのは、単に誰も頼んでみなかったから。
ほとんど自分で車イスに移れる人を自分たちで動かそうとして看護師は腰痛になっていた、
というような笑い話みたいなことが、実際、結構ある。

以下のエントリーの事例もそうだし、
その後半で紹介した知人のOTさんの経験も象徴的 ↓
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/62691198.html

そもそも著者が指摘しているように、
介護施設の入所者を病院に入院させると、前よりも状態が悪くなって帰ってくるのは
施設では常識になっている、ということ(p. 145)が
まったくおかしな話。

それも、病院では「病変」だけを見ていて、その人を見ていないからだ、と。

また、以前、じょくそうのケアでは
痛み止めもせずに広範に肉を切り取ることが当たり前とされており、
著者自身、ある日ふと救急セットに目が止まるまで、
そのケアの間、痛みで暴れる高齢者を押さえつけ続けていたことについても、

……私も含めてケアのプロフェッショナルがいたにもかかわらず、「痛み止めの処置をしたいのが当たり前」と思っていたのです。

 私は平和主義者であり、志を持っていました。それでも、このようなことをやってしまっていた。過去を振り返って思うのは、志や優しい心、思いやりを持っているだけではダメだということです。それぞれの職業文化に縛られている思考を解放しなくてはいけないのです。
(p. 33)


 一方的に与えるだけの関係が成り立つのは、どちらかに絶対権限があるからです。ケアの現場でよく聞かれる言葉に「動かないでください」があります。たとえ、それを優しい声音で言っていたとしても、意味するところは「私が全権を持っていて、あなたにはない。だから動かないでください」なのです。
(p. 58)


私たちが他人の陰部に触れることができるのは、相手がそれを望むときだけです。だからこそ無理やり触れることを暴行と呼ぶのです。それをケア業界ではわかっていない人が多いように思います。自分の業務を遂行することで頭がいっぱいだからです。
(p. 74)


著者は、外の世界では当たり前のことが、
病院や施設では「こうあるべき」「こういうもの」という専門職の思い込みで
当たり前でなくなる不思議や滑稽をいくつも挙げてみせる。

ホテルだと従業員はノックをして許可を得てから出ないと部屋に入ってこないし、
カップルが同じベッドで寝ようと性行為をしようと当人たちの自由だし、
一方フランスの法律で、介護施設の居室はプライベートな空間と定義されているのに、
看護師や介護士はノックをしたら返事を待たずに入ってくる。

 ホテルでは、職員はコンコンコンとノックしても、私が応える前に入ってくることは絶対にありません。でも、病院だと1000人が1000人とも入ってくるのです。意識的に行っているわけではないのです。けれども、そのことによって力関係が確立されてしまうのです。

だからこそ、私たちが馴染んできたケアの文化をもう一度見直す、特別な訓練をしなければならない、ということです。
(p. 234)


カップルが施設に入所すると、たちまち引き離されて性まで管理される。

……ケアする人は、高齢者の性に対する権限を持っていると思っています。これは文化のなせる業です。
(p. 122)


 これまでの話に共通しているのは、ケアする側は権力を持っていて、患者や入居者を管理する発想に陥りがちだということです。何度も繰り返します。ユマニチュードは個人の自由と自律を尊重し、だからこそ絆を重視します。

 私はあなたを管理する。この考えを持つ限り、相手とのあいだに生じるのは力関係です。ユマニチュードは人と人との関係を紡ぎます。そのためには、あなたがいま持っている権力を脇に置かなければなりません。そうでないと目の前の人に近づくことはできないからです。あなたは自分が権力者だと気づいていないかもしれません。だからこそ変化の鍵はそこにあるのです。
(p. 127)


 自分に権力がある限り、その人に近づき、その人を好きになることはできません。しかし、権力をすべて放棄したとき、絆が生じ、相手を本当に好きになることができるのです。
(p. 136)


ユマニチュードとは、「人間らしさ」であり、
人間らしさを取り戻す、という意味を含んでいるのだという。

その点では、リハビリテーションの基本理念そのものだなぁ、と思う。

ただ、リハビリテーションは「(専門職が)人間回復をさせてあげる」というニュアンスが
(私の先入観か)強いのに対して、ユマニチュードはむしろ、対等な人間同士として
自分から虚心に相手に近づいていき、そこで人と人としての絆を結ぶ、という理念。

 ……力関係に陥らずに済む方法が、たったひとつあります。

 ケアを受ける人とケアをする人の間に絆を結ぶことです。それがあれば入浴に来てくれます。なぜでしょうか? ケアを受ける人がケアをする私のことを好もしいと思っているからこそ、一緒に風呂場まで来てくれるのです。それがポジティブな依存関係がもたらす絆です。
(p. 116)


 ユマニチュードは人間性を取り戻すための哲学です。誰かをもの扱いするとき、そうしている人もまた人間性を失います。相手から人として認められ、自分も相手を人として認識する。それがユマニチュードの理念であり、そこに価値があるのです。
(p.118)


ここに書かれていることは、
2013年にカナダ医師会雑誌の論説が書いていた
「ケアする者である我々が認知症の人をノンパーソンとして扱うなら、
それだけ治療的な関係もケアする側の人格も同様に損なわれるということでもあるんだけど、

いわゆるパーソン・センタードという立場をユマニチュードはとらない。

 ケアする相手との絆ができてこそ互いに幸せになれます。ケアを受ける人を中心に置いても、ケアする人を中心に置いても間違いが起きます。中心に置くべきものは、相手とのポジティブな関係の「絆」なのです。
(p. 164)


つまりユマニチュードとは、「人が人として扱われること」に尽きると言ってもいい。
ここには、人が人として尊重されることが尊厳である、という明快なスタンスがある。

そのためのキーワードが「絆」。

そのためには、
専門職のほうが自分の中の恐れを乗り越えて自由になり、
一人の人としての自分の感情を素直に表現しながら相手に対して自分をひらき、
相手を人間として尊重していることを表明しつつ近づいて
優しく暖かいメッセージを伝えることが重要なのだけれど、

その行動を容易にし、メッセージが的確に伝わるためには、
理念や優しい気持ちだけでなく、適切な技術が必要。
そのテクニックがユマニチュード。

基本の柱は
「見る・話す・触れる」それから「立つ」

「見る」については、

ケアする人はケアを受ける人を見下ろす位置にいることが多いが、
水平の視線で初めて平等の関係になる。

近づいて声をかけようとするなら、まず視線を捉えること。

最悪なのは見ないこと。見ないとは、存在を認めないこと。

「話す」については、

赤ちゃんに話しかけるときの優しい声と歌うようなトーン。前向きな言葉で。

話しかけても話しかけても返ってくるものがない時には
手を動かし続け、それを自分で実況する「オートフィードバック」で
「反応のない人のケアの場に、常に言葉を溢れさせる」(p.201)


「触れる」については、

力づくでのケアや、攻撃的と感じさせる掴み方は暴力。
無理やりのオムツ交換はレイプ。
本人にすれば防御なのに、攻撃的だとか認知症の問題行動だと言われてしまっている。

顔や胸や陰部などプライベート・ゾーンにいきなり触れてはならない。
触れるのは顔ではなく背中から。

触れる場所を選び、優しく、広く、常に触れていること。

(これはマッサージをしてもらうとよく分かる。
左から揉んでくれていた人が右側に移動する時、
手を背中に触れたままで移動してくれることで
相手の動きがわかり安心感につながる)

ただし、いつも「してあげる」ための一方的な触れ方ではなく、
触れることによって痛みを感じとれるような触り方を。


「立つ」については、

著者は立つことを人間としてのアイデンティティや知性、尊厳の基礎と捉えている。
それは、拘束の対極としてイメージされているのではないかと思う。

1日のうち総計で20分立つことができることは寝たきりにならない。
ケアのあいだにわずかな時間、立ってもらう時間の積み重ねで20分にできる、と著者はいう。


また、すべてのケアを5つのステップで構成されるひとつの手順で行う。

出会いの準備
「3回ノックして3秒待つ」などの手順で相手の縄張りを尊重し、
出会いの合図を送り、覚醒を促す。

ケアの準備
 「体を洗いに来た」のではなく「あなたに会いに来た」と伝える。
20秒から3分でできる。それから体に触れ、ケアの提案へ進む。無理強いはしない。

知覚の連結
 ひとつではなく2つの感覚から心地よいメッセージを。
 話すことと眼差し。触れることと眼差しなど。

感情の固定
 パーティから帰る時に「楽しい時間だった」と確認し合うように。

再開の約束
 「会いに来た」ように「またきますね」。


著者は人の体に触れ合うことの少ない日本の文化について特記しており、

 私がこれまで出会ってきた国の人たちの中で、日本人は最も人間関係を恐れています。それがために他者に出会うのがすごく難しい。ユマニチュードは、まさにそのような状態から抜け出す方法を示しています。だからこそ、日本人は即座に「これは解放の哲学だ」と理解するのです。
(p. 247)


正直、
「立つ」以外は、みんな
海が赤ん坊の頃から、無意識のうちにやり続けてきたことだなぁ、と思わないでもない。

例えば、着替えやオムツ交換の際に、看護職・介護職は(親ですらも)
無言で体をごろんと横に向けたり、また戻したりしているんだけど、
私たち夫婦は特に意識することなく「横を向こうか」「戻るよ」と
これはもう赤ん坊の頃からずっと声かけをしている。

それが取り立てて意識したこともないほど当たり前のことだったから、
施設で無言でごろん、ごろんと転がす人たちを見て初めて、
自分たち夫婦が声かけしていることに気づいたくらい。

そういえば昔、
フロアに横になっている海の顔の上をまたぎ超えた養護学校の先生がいた。

その時、その先生との関係がよくなかったのでその場で非礼を指摘せずに
遠慮してしまったことを、海に申し訳なかったと今なお悔いている。

昔、我が家にふらっと立ち寄った、ある重症児者の専門医は、
リビングで海の布団のそばに立ったまま、愛嬌を振舞いている海を見下ろし、
「海ちゃん、ひさしぶり」と一言。あとは立ったまま大人同士の話に終始した。
私は海が可愛そうで、泣きそうになった。

どんなにいいことを言い、どんな立派な業績があろうと、
私はその2人をいい教師だとかいい医師だとは認めない。

誰も正面きって指摘しないけど、
私たち、それなりに年を食った保護者は
なんで30代や40代の若造から医師だというだけでタメ口たたかれないといけないのか、
内心では苦々しく感じている。

ユマニチュードって、結局そういうことじゃないのかな。

家族や友人に対してはできないことを
あるいはプライベートでは決してできないような言動を、
専門職だから、専門機関だから、してもかまわないという文化と
そこにある権力構造を解体しましょう、

そのためには理念ばかりを説いたのでは
なかなか実践できないだろうから、それを手順化しルール化してみました。

そういうもののような気がするし、

そこで求められているのは、
一人の人と一人の人として、その時その時に心を込めて
誠実に「出会う」ということなんじゃないのかな、と思う。